2022/4/17 鈴木雅明×BCJ マタイ受難曲2022年04月18日 11:01



バッハ・コレギウム・ジャパン 
 J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244

日時:2022年4月17日(日) 16:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:鈴木 雅明
共演:ソプラノ/ハナ・ブラシコヴァ、中江 早希
   アルト/ベンノ・シャハトナー、青木 洋也
   エヴァンゲリスト/トマス・ホッブス
   テノール/櫻田 亮
   バス/加耒 徹、渡辺 祐介
   合唱・管弦楽/バッハ・コレギウム・ジャパン
演目:J.S.バッハ/マタイ受難曲 BWV244


 無人島へ1曲だけ持って行けるとするなら、バッハの「マタイ受難曲」を選ぶだろう、といったのは吉田秀和だった。リヒターだったかクレンペラーだったか、それとも演奏者については触れていなかったのか、思い出せないけど。
 海に投げ出され死を覚悟した刹那、バッハの「シャコンヌ」を幻聴した、と吉田満は『戦艦大和ノ最期』に書いた。
 神が好む音楽はバッハでなくモーツァルトだ、と誰かが言っていたが、人が究極の選択をするとき、生死の境を彷徨うとき、聴こえて来る音楽はバッハなのかも知れない。

 ふだん、バッハの音楽を生ではあまり聴くことがない。音盤でも「無伴奏チェロソナタ」か「平均律クラヴィーア曲集」くらい。でも、「マタイ受難曲」だけは選んで聴いてきた。
 むかしは、ライプツィヒの聖トーマス教会合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団が定期的に来日し、ほとんど毎回「マタイ」を公演した。これに何度か足を運んだ。LGOといえばカール・ズズケの前にコンサートマスターを長く務めていたゲルハルト・ボッセが、晩年、奥様が日本の方ということもあったのだろう、日本に在住し後進を指導しつつ指揮者としても活躍していた。いつだったか鎌倉芸術館で新日フィルを振った「マタイ」が素晴らしかった。直近では2016年に管弦楽も合唱も少人数で演奏したクイケン&ラ・プティット・バンドを聴いた。
 6年ぶり、復活祭の、鈴木雅明×BCJによる「マタイ受難曲」である。

 鈴木雅明の「マタイ」は硬軟とりまぜ、厳しさと優しさを使い分け物語を紡ぐ。第1部の受難告知から捕縛までは淡々と語り、第2部の審問から磔刑、安息までは極めて劇的に描いた。
 弦は1群、2群ともヴァイオリン各3+3、ヴィオラ2、チェロとヴィオローネがそれぞれ1、コンマスは1群が若松夏美、2群が高田あずみ、第2部からは福沢宏のヴィオラ・ダ・ガンバが加わった。管はフラウト・トラヴェルソ系、オーボエ系が各2、1群、2群共用のファゴット1の編成。オルガンは大塚直哉と中田恵子、コンティヌオ・オルガンが多彩な音を出していた。プログラムノートのメンバー表には記載されていなかったが、鈴木優人もチェンバロで参加していた。帰国早々で急遽出演が決まったようだ。
 ソリストは合唱を兼務し、4声部は1、2群とも各3で12+12の24、リピエーノも合唱団のメンバーが担当した。
 エヴァンゲリストはトマス・ホッブス、大昔の哲学者と同姓同名だが、近寄りがたい雰囲気はなく、むしろ声は軽めで明晰。知的に冷静に語っていくのだけれど、ペテロ否認の場の「外に出て、激しく泣いた」と、十字架上のイエスの言葉を繰り返す「神よ、神よ、なぜわれを見捨てたか?」の2箇所ではやはり感情が迸る。ここはいつもながら涙が止まらない。
 加耒徹のイエスは若々しく鮮やかでありつつも、とくに「エリ、エリ、レマ、アザブタニ」の苦悩から、大詰め間際のアリア「私の心よ、おのれを清めよ」の癒しまで全くもって完璧、見事なイエスを聴かせてもらった。
 有名なアルトのアリア、ペテロ否認のあとの「憐れんでください」と、ピラトがバラバを釈放しイエスを引き渡した直後の「頬をつたう涙」は、2人のカウンター・テナーであるベンノ・シャハトナーと青木洋也が歌った。ここは固定観念のせいか女声の艶を求めてしまったのは、好みだから仕方あるまい。

 遠い国のことではあっても戦争の時代に聴く「マタイ」である。
 人であるかぎり罪を犯すことは避けられない。ユダは裏切り、ペテロは嘘をつく。民は証拠のないまま善なる者を十字架につける。「死に値する」と叫び、唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打つ。バラバとイエスのどちらを釈放するか、というピラトの問いに、群衆は「バラバ!」と熱狂し、イエスを「十字架につけよ」と要求する。
 人間はどこまでいっても熱に浮かされ同じことを繰り返す。どうあっても罪を逃れることはできない。だからこその信仰なのだろう、祈るしかない。
 J.S.Bachの「Matthaus Passion」、稀有の音楽である。