2025/4/26 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第12番」 ― 2025年04月26日 22:04
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会 第404回
日時:2025年4月26日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:チェロ/上森 祥平
演目:グラジナ・バツェヴィチ/弦楽オーケストラ
のための協奏曲
ショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番変ホ長調
ショスタコーヴィチ/交響曲第12番ニ短調
「1917年」
神奈川フィルのシーズン開幕、監督が登壇してショスタコーヴィチをメインとしたプログラムを組んだ。
最初はポーランドの女性作曲家・ヴァイオリニストのグラジナ・バツェヴィチによる「弦楽オーケストラのための協奏曲」。戦後すぐに書かれたバロック様式の急―緩―急の作品だが、旋律は大胆に動き回り、1・3楽章などリズムは激しい。途中、分奏や四重奏、ソロが挟み込まれ弦5部の響きは独特のものがある。攻撃的で野性的なところがあってちょっとバルトークを連想させる。
神奈川フィルは数年前にシーヨン・ソンの指揮で20世紀前半に活動した女性作曲家フローレンス・プライスの「アメリカにおけるエチオピアの影」を日本初演している。今、女性指揮者の台頭とともに、歴史のなかに埋もれがちな女性作曲家にもスポットが当たりつつあるのかも知れない。
コンマスは石田泰尚、アシストはゲストの佐久間聡一。もう一人のコンマスである大江馨が3月末で退団している。石田さんもソロ活動などで多忙だからコンマス1人体制は厳しい。佐久間さんは適任と思うが、鋭意選考中なのだろう。チェロの首席は上森祥平が次のショスタコーヴィチのソロを担当するので、代わって懐かしい顔の人が座っていた。以前神奈川フィルで、その前は都響で首席を務めていた山本裕康がゲストだった。
さて、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」。名手ムスティスラフ・ロストロポーヴィチに捧げられた実に魅力的なコンチェルト。技術的には相当な困難が伴うようで頻繁に演奏される作品ではないけれど。オーケストラの編成は金管楽器がホルン1本のみと変わっている。そして、ホルンはチェロと同じように独奏楽器のごとく活躍する。坂東さんだろう、と思っていたら、読響の松坂さんが客演で登場した。
第1楽章「アレグレット」はショスタコーヴィチのイニシャル(DSCH)に基づくゴツゴツした主題が楽章を通じて自己主張していく。チェロとホルンとのやり取りが聴きどころ。木管楽器は力強いパッセージを吹き鳴らし、全体としては軽快ながらも緊張を孕む。コーダの手前、一瞬静寂に包まれたあと爆発的な勢いでもって終了した。第2楽章「モデラート」はエレジー。オケの序奏に続きホルンに導かれてチェロの嘆きが始まる。抒情的で祈りをこめた主題が印象的。終結部はチェロのフラジオレットにチェレスタが加わり夢幻の世界へいざなう。第3楽章「カデンツァ」ではオーケストラは沈黙、チェロはその表現力を縦横無尽に駆使する。「カデンツァ」はそのまま第4楽章「アレグロ」へと雪崩れ込む。「交響曲第10番」と同様、音名象徴がそこら中に出現し、途中でワルツが唐突に流れる。リズムはティンパニや木管楽器によって強調され、まるでショスタコーヴィチが嬉々として飛び跳ねている様を見るようだった。
上森祥平のチェロはことさら情熱をたぎらせるのではなく、どちらかというと冷静沈着、理知的で大人しい。ちょっと小ぶりと感じたのは致し方ない。相方のホルンが豪快な松坂さんだから余計そんな思いが増幅したのかも。沼尻監督の指揮はいつもながらの見事なサポート。それにしても、これだけ技術的に高度なソロをオケの首席が担い、管弦楽メンバーの独奏も頻出する。近年の日本のオケの実力をまたひとつ証明した演奏だった。
最後は「交響曲第12番」、世間ではショスタコーヴィチが書いた交響曲における最大の失敗作という、本当か?
この作品はショスタコーヴィチの共産党入党と少なからず関係しているらしい。共産党はイメージ向上策として知識人の抱え込みを画策し、ショスタコーヴィチもこれに巻き込まれ強制されて共産党へ入党した。そのときの忠誠の証として革命とレーニンに捧げるこの交響曲が作曲された。1960年ころの話である。前作「第11番」が「血の日曜日事件(1905年)」、本作はその続編で「十月革命(1917年)」を扱った標題音楽である。4楽章構成で第1楽章「革命のペトログラード」、第2楽章「ラズリーフ湖」、第3楽章「巡洋艦アヴローラ」、第4楽章「人類の夜明け」である。「第11番」と同じく切れ目なく演奏される。
「第12番」は前作とは使用楽器が大きく違う。「第11番」で活躍するシロフォンやチューブラーベル、チェレスタなどの特殊楽器が全く用いられてない。古典的で地味な楽器編成であり、前衛的な管弦楽法は目立つことなく、皮肉や諧謔、反骨や批判精神が後退しているように思える。西側諸国では時局に迎合し体制に擦り寄った作品だという批判が、そして、自国でも評判は芳しくない。標題付きでありながら描写的とはいえず、音楽から標題性を捉えることが難しい。革命とレーニンの記念碑的な感銘を響きからは受取ることができない。
終楽章など「人類の夜明け」という白々しくも仰々しいタイトルで、繰り返される3音音形や4音音形のしつこさは異常なほど。クライマックスも執拗に積み重ねられる。見かけは立派な皮を被っているけど中身は伽藍堂、まるで音でつくったパズルのようだ。これではロシア革命を称えレーニンを賞賛する交響曲とはとてもいえない。多分、ここでのショスタコーヴィチは、音自らが生成発展して行くことのみに関心があった。描写だ、標題だ、革命歌だ、などは言い訳に過ぎないのだと思う。それが独裁政権には気に入らない。共産党はこの曲の裏に隠された胡散臭さを嗅ぎ取り、一方、西側は表に現れた滑稽なほどの体制迎合ぶりを怪しからんと決めつけた。ショスタコーヴィチの韜晦、二枚舌はここでも健在なのだ。
沼尻×神奈川フィルを聴いていると、ショスタコ流アレグロの集大成というべき猛烈な疾走感があり、音名象徴らしい音形の連打に興奮が高まる。それらの音響のなかで外観と内観がだんだんと乖離して行く。音楽自体の崩壊の過程を聴いているような不思議な感覚を味わったわけだ。聴き手を翻弄し続けるこの「第12番」もショスタコーヴィチの傑作ひとつであると確認できた演奏だった。
チケットの振替手続き ― 2025年04月04日 17:47
演奏会の中核は定期会員となっている東響と神奈川フィルだけど、どちらも開催日が土曜か日曜の14時からとなっていて、毎シーズン何度か両楽団の公演が重複する。
定期会員にはチケットの振替サービスがあるものの手続きが結構面倒である。東響は同一開催月の同一プログラムのみ振替可能で、基本、川崎定期と東京定期との交換となる。神奈川フィルは開催月や演目に関係なく振替可能だが、シ-ズン内3回までという制約がある。
昨シーズンの神奈川フィルについては、公演選択制のセレクト会員とし重複を回避したが、4月からの今シーズンはもとの定期会員に戻した。このため今年度は両楽団の3公演が重なり、振替手続きをしなければならない。
東響は川崎定期の演目が魅力的なため、振替はすべて神奈川フィルの公演にした。最初に電話で振替先を予約し、手持ちのチケットと書留用の切手を郵送すると、振替先のチケットを送付してくれる。もちろん座席指定はできず楽団任せである。しかし、希望通りの振替が可能となり、早速、1回目の5月公演の振替先チケットが送られて来た。座席もまずまず良好でほっとした。2回目は12月、3回目は1月の予定となっている。
2025/3/8 ライスキン×神奈川フィル チャイコフスキー「悲愴」 ― 2025年03月08日 21:10
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会 第403回
日時:2025年3月8日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:ダニエル・ライスキン
共演:ヴァイオリン/MINAMI
演目:ドホナーニ/交響的小品集Op.36
バルトーク/ヴァイオリン協奏曲第1番
チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調
Op.74「悲愴」
ライスキンと神奈川フィルは二度目の顔合わせ。前回は3年ほど前、みなとみらいホールが改修中のため県民ホールでの定期演奏会だった。「モルダウ」とチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、それにドヴォルザークの「交響曲第8番」というプログラムで、珍しく当時の感触をはっきり覚えている。
ライスキンはサンクト・ペテルブルク生まれのロシア人だが、故郷でヴィオラを専攻した後、西側に渡り指揮者に転身した。スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督にも就任している。一昨年にはスロヴァキア・フィルとの来日公演があった。
プログラムの最初はドホナーニの作品。ドホナーニといえば我々の世代はすぐに指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニを思い浮かべるが、「交響的小品集」は、その祖父であるハンガリーのピアニスト兼作曲家であるエルンスト・フォン・ドホナーニの手になるもの。現在ではほとんど忘れられた作曲家の一人だろう。
「交響的小品集」は、タイトル通り5曲の小品が集められている。ブラームスの「ハンガリー舞曲」風の民族色豊かな音楽かと思いきや、まるでファンダジー映画の劇伴音楽のような楽しい曲。ライスキンと神奈川フィルは上々のスタートをきった。
次いで、バルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。プログラムノートによると、バルトークが20代のとき、想いを寄せていたヴァイオリニストに献呈した曲。なのにどういうわけか彼女は演奏しないまま封印し、バルトークも彼女も亡くなったあと、彼女の遺品の中から発見されて陽の目をみた作品だという。
楽章はアンダンテとアレグロの2楽章、これからして変則的な構成。曲は全音音階を多用しているせいもあってなかなか調性がつかめないが、アンダンテは夢見るような楽章、独奏ヴァイオリンからはじまりオケ全体に音がだんだんと広がっていく様が美しい。アレグロはソロとオケとの掛け合いがスリリングで、MINAMIの弓使いなど人間業とは思えないほどのスピードと動き。難解な楽曲でありながら情感あふれる演奏を展開した。
ソリストアンコールはアレクセイ・イグデスマンの「ファンク・ザ・ストリング」。これがまたキレキレ、会場は沸きに沸き、オケのメンバーもみな拍手喝采。MINAMIは、以前、吉田南といっていたはず。戸澤采紀と同様、ベルリン・フィルのヴァイオリン奏者を目指しているという。ソリストたちが入団を希望するベルリン・フィルとは、そういうモンスター集団ということなのだろう。
休憩後、チャイコフスキーの「交響曲第6番」。ライスキンは大げさにハッタリをかますことなく、作品の構造を解き明かすような演奏でありながら、熱量十分な起伏の大きな音楽をつくった。ライスキンの棒のもとオケの鳴りは一段と冴え渡っていたが、第1楽章のクラリネットと終楽章のファゴットがとくに印象的で、ライスキンも真っ先にこの2人を称えていた。
ファゴットは首席の鈴木一成。クラリネットはゲストの近藤千花子。近藤は東響の奏者で東響では主にセカンドを担当、ふくよかでやわらかな音を出す。弦5部も好演だった。コントラバスのトップには新日フィルの菅沼希望が、そして、コンマスには日本センチュリー響の松浦奈々が客演していた。
ライスキンは、ドホナニーとバルトークという同じハンガリー人で音楽学校の同窓生を並べ、若い時から尖っていたバルトークと19世紀のロマン派音楽の流れを汲むドホナーニとを鮮やかに対比させた。チャイコフスキーの「交響曲第6番」という大向こうを唸らせるような曲も過剰な表現で誤魔化すことなく、それでいてうねるがごとき情感や悲哀をものの見事に描いた。今度は彼の指揮するショスタコーヴィチやプロコフィエフを聴いてみたい。
2025/2/15 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」 ― 2025年02月15日 22:03
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会 第402回
日時:2025年2月15日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:ヴァイオリン/服部 百音
チェロ/佐藤 晴真
演目:ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための
二重協奏曲 イ短調Op.102
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調Op.93
今年初の神奈川フィルだが、年度でいえば終盤、今日の沼尻監督のあと来月のライスキンにて閉幕となる。沼尻はショスタコーヴィチを毎シーズン取りあげており、前々期が「8番」、前期が「7番」で、今期が「10番」、来期開幕の4月には「12番」が予定されている。
前半はブラームスのドッペルコンチェルト、ソリストは服部百音と佐藤晴真。
以前、広上×京響のドッペルコンチェルトを佐藤晴真で聴いている。相方のヴァイオリンは黒川侑だった。服部百音は過去にはエッティンガー×東フィルとのメンコンを聴いた。
ドッペルコンチェルトはブラームス最後の管弦楽曲、「交響曲第5番」になるはずが協奏曲になった楽曲と言われている。地味だけどブラームスらしく骨太でがっちりした構造、幾つかの主題も魅力的だ。
アレグロは、力強いテーマと抒情的な曲調が反復しつつ、ブラームスらしい旋律が演奏される。チェロとヴァイオリンが交互にリードしながら進行する。佐藤と服部のハーモニー、沼尻の振る力漲るオケ、いずれも好調である。
アンダンテは、ホルンでのびやかに開始され、管楽器がこだまのように鳴る。ホルンは新人と客演で固めていたが良い音を出していた。弦楽器の伴奏にのって独奏のヴァイオリンとチェロが寂しい雰囲気の主題を奏でる。チェロとヴァイオリンの対話が際立ち、静謐で甘美なメロディが会場を満たす。
ヴィヴァーチェは、ジプシー音楽のような舞曲風の楽章。ユーモラスに聴こえる部分もあるけど難曲。テーマが繰り返され、さまざまな変奏が行われることで興奮が高まっていく。石田泰尚が率いるオケも二人のソロも表現の濃淡が鮮やかで情熱的なブラームスだった。
アンコールはヴァイオリンとチェロの二重奏によるヘンデルの「パッサカリア」、ハルヴォルセンの編曲だという。これが絶品。セカンドヴァイオリン首席の直江さんが何度も頷きながら聴いていた。満員の客席が沸きに沸いた。
後半がショスタコーヴィチの交響曲、今年になってからN響の「7番」、MM21響の「9番」、都響の「13番」と続き、今日が「10番」である。「10番」は「5番」と並んで聴く頻度が高い。
第1楽章は冒頭の低弦から緊張感が徐々に高まり、恐怖が迫る暗澹たる楽章。神奈川フィルの弦や管、打楽器の妙技に魅せられているうちに終わった。体感的に長さを全く感じさせない。
第2楽章は各楽器が入り乱れ、銃弾が飛び交うような狂気のアレグロだが、そのスピード感が爽快に思えるほど。「10番」はアマオケでもときどき取り上げるけど、プロとの差が歴然とするのはこの楽章。沼尻×神奈川フィルの速度とキレ、一糸乱れぬアンサンブルに大興奮。
第3楽章はいびつな舞曲で、しつこいくらいイニシャルの音型が散りばめられている。この音名象徴で目立つのはホルンの豊田さん。以前のユージン・ツィガーンのときに比べると格段に安定していた。ホルンチームの新人たちとの連携も良好。
最終楽章は第1楽章が戻ってきたように開始されるが、アレグロに突入すると乱痴気騒ぎとなる。神奈川フィルはこのところフルート、ファゴット、ホルン、トロンボーン、パーカッションなど各セクションに契約団員が何人も加入している。契約団員は本採用待ちの団員だと思うが、この混沌とした音楽を容易く捌いて行く。将来が楽しみである。
沼尻のショスタコーヴィチは、神奈川フィルとの「8番」、東響との「11番」が名演だった。この「10番」も恐怖や暴力、皮肉や諧謔を感じさせるよりは、純粋な音楽として説得力があった。ショスタコーヴィチの二重言語的な振舞いや、暗号のような音名象徴にとらわれなくても、あるがままの絶対音楽としてどうか、と問うているようでもあった。
沼尻は、この4月に神奈川フィルとの「12番」が控えているが、その前の3月末には音大合同オケを振って「4番」を披露する。これだけ素晴らしいショスタコーヴィチとなれば期待は高まるばかりである。
2024/12/22 大植英次×神奈川フィル 「第九」 ― 2024年12月22日 22:16
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
For Future 巡回公演シリーズ
日時:2024年12月22日(日) 14:00開演
会場:横浜みなとみらい大ホール
指揮:大植 英次
共演:ソプラノ/宮地 江奈
メゾソプラノ/藤井 麻美
テノール/村上 公太
バリトン/萩原 潤
合唱/神奈川ハーモニック・クワイア
演目:モーツァルト/「バスティアンとバスティエンヌ」
序曲
ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調Op.125
「合唱付き」
神奈川フィルの演奏会案内によると、「第九」が1824年にウィーンのケルントナートーア劇場で初演されてから今年が200年目に当たるという。
大阪フィルハーモニー交響楽団の桂冠指揮者、ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの名誉指揮者である大植英次は、ハノーファー音楽大学では終身正教授も務めていて、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のシェフであるヨアナ・マルヴィッツの師匠である。大植自身はバーンスタインの弟子だからマルヴィッツはバーンスタインの孫弟子ということになる。
大植はもう70歳に届こうとしている。オーケストラ・ポストは名誉職のみで、後進の指導に重きをおいているのかも知れない。それでも時々は帰国して指揮をしてくれる。首都圏ではN響、東響、日フィルなどを振っているが、神奈川フィルとは相性が合うとみえ定期演奏会を中心に毎年のように指揮をしている。
ところが大植×神奈川フィルを聴く機会がなかなか訪れない。彼が振るときに限って他楽団と日程が重複したり用件が出来してパスせざるをえなかった。大植を聴くのはコロナ禍の東響を相手にした演奏会以来である。
「第九」の前に歌芝居「バスティアンとバスティエンヌ」の序曲から始まった。弦は8型、管はオーボエとホルン、打楽器は用いない。今日のコンマスは読響の戸原直がゲスト。
モーツァルトはこのとき12歳の少年。この序曲の何が興味深いかというと主題が「エロイカ」と瓜二つ。もっとも同じような旋律であってもこちらは鄙びて長閑なもの。大植×神奈川フィルの演奏も優しく可愛らしい。
多分、本歌取りをしたのではなく、たまたま一緒になってしまったのだろう。聴き手からするとモーツァルトの曲のなかにベートーヴェンが浮かび上がる。その2分ほどの序曲を終え、休憩を挟むことなくそのまま「第九」へ。
弦は14型に増強され、管楽器・打楽器奏者が加わる。最近の「第九」は12型や、場合によっては10型の小編成で、ピリオド奏法を取り入れた歯切れ良い音楽になることが珍しくない。
もちろん大植はそんな演奏などに拘泥しない。第1楽章は神秘的な開始、音の大きな波小さな波が興奮を高めていく。第2楽章はかなり快速、金管を強調して気合十分。第3楽章は弦の美しさが際立つ。ホルンのトップは坂東さんだったが、くだんのソロは楽譜通り4番奏者が吹いた。初めてみる若い男性、新しく入った契約団員なのかゲストなのか分からないけどすごく上手い。演奏後、大植は真っ先に4番奏者を立たせ称えたが、さもありなん。終楽章はうねるうねる、パウゼは深く、タメも十分、濃厚な演奏を繰り広げた。そんな大植の指揮にオケは食らいつき、合唱も久野綾子や岸本大などが参加するプロ集団だから一分の隙も無い。
吃驚したのはソリストと合唱団が舞台へ登場する場面。席はP席ではなくオケと同じ舞台上に用意されていた。普通は第2楽章が終わったあとソリストと合唱とが入場するか、合唱団ははじめから待機しソリストのみ第3楽章の前に着席する。ところが、今日は最終楽章が開始されてもソリストや合唱団が出てこない。空席のまま。
トランペットが鳴り、オケは先行楽章の主題をひとつひとつ否定し、新たな歓喜のテーマを低弦が提示する。そのときようやく上手からバリトンの萩原潤が、遅れてテノールの村上公太が入場した。2人は舞台上でハグしたり肩を叩きあったりしてちょっとした演技をする。下手からはメゾの藤井麻美とソプラノの宮地江奈が続き、4人が揃うと握手をしたり周りを見まわしたり小歌劇のように振舞う。
そのうちに、40人ほどの合唱団が舞台奥の定位置についた。歓喜のテーマが各楽器によって演奏され丁度終わるところだった。おもむろにバリトンの萩原が「O Freunde」と歌いだす。こんな演出は前代未聞、大植のアイデアだろう。意表をつかれたものの、これはこれで感心し納得してしまった。
それと、はじめて気づいたのだが大植の指揮棒が奇妙な動きをする。ときどき逆手に持ち替え、いつのまにか指揮棒が消える。指揮棒を譜面台に置く指揮者はいるけど、大植はどうやら上着の袖のなかへ入れてしまうようだ。指揮棒を袖のなかへ入れたまま両手の指先をヒラヒラさせ指示する。その指示も非常に細かく丁寧な場合と、まったく奏者に任せてしまうときがある。指揮の不思議もひとつのマジックかもしれないと思う。
それにしても大植の音楽は外連味たっぷり。だけど、わざとらしさとか嫌味は感じない。古典派というよりロマン派のベートーヴェン。振幅が大きく堂々として懐かしさを覚えるベートーヴェンだった。
明日、19時からミューザでも同一プログラムによる公演がある。横浜は完売だったが川崎は残券があるようだ。
今年最後の演奏会、一年が終わった。