2024/7/13 広上淳一×日フィル リゲティとシューベルト2024年07月13日 21:15



日本フィルハーモニー交響楽団
   第762回 東京定期演奏会

日時:2024年7月13日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:広上 淳一
共演:ヴァイオリン/米元 響子
演目:リゲティ/ヴァイオリン協奏曲
   シューベルト/交響曲第8番 ハ長調 D.944
        「グレイト」


 先ずは、難曲中の難曲、リゲティの「ヴァイオリン協奏曲」から。
 リゲティを初めて聴いたのは、『2001年 宇宙の旅』の中でのことだったと思う。クラシックの音盤を集め出した頃で、R・シュトラウスやJ・シュトラウスの音楽に感激しながら、リゲティについてはその音響が耳に残ったものの、作家にも音楽にも関心が持てなかった。当たり前だろう、旋律も和音も茫漠として音響操作のみでつくられているようなゲンダイ音楽など理解できるわけがない。
 その後、ほとんど絶縁状態のまま何の支障もなかったのだけど、ノットが東響の監督になってからしきりとリゲティを取り上げる。「ハンガリアン・ロック」「ポエム・サンフォニック」「ルクス・エテルナ」「レクイエム」など嫌でも聴かされる。ノットはベルリン・フィルを指揮して「リゲティの全管弦楽作品全集」を録音しているくらいだから、好みの音楽のひとつなのだろう。東響定期における「ルクス・エテルナ」や「レクイエム」では強い印象を受けた。そして、これらが『2001年 宇宙の旅』でも使われていた楽曲だと半世紀ぶりに確認することなる。

 そのリゲティ晩年の傑作といわれる「ヴァイオリン協奏曲」はいつか生で聴いてみたいと思っていた。昨年のコパチンスカヤと大野和士×都響との公演は聴き逃した。さいわい当日の模様はYouTubeで公開されているので一応予習をかねて視聴した。
 今日、ようやく米元響子と広上×日フィルによるライブを聴く。米元響子は広上が可愛がっているようだ。何度か協演するのを目にする。米元はベルキンに師事しており、広上とベルキンは友人同士だからその関係もあるのかも知れない。どちらにせよソロと指揮者とは気心の知れた間柄だろう。米元のモーツァルトやベートーヴェンの協奏曲は良かった。果たしてリゲティはどうか。

 リゲティの「ヴァイオリン協奏曲」の伴奏は小さな編成である。弦はヴァイオリンが3+2、ヴィオラ3、チェロ2、コントラバス1。うちヴァイオリンとヴィオラの各1は変則調弦する。木管楽器はリコーダーやオカリナに持ち替える。金管楽器はホルン2とトランペット、トロンボーン。打楽器は現代音楽らしく10種類以上を用意し、極めて多様な音を生み出す。
 楽曲は、第1楽章:前奏曲、第2楽章:アリア・ホケトゥス・コラール、第3楽章:間奏曲、第4楽章:パッサカリア、第5楽章:アパッショナート、の5楽章で構成されている。1990年の初演時には3楽章形式だったがその後改訂された。

 演奏が始まる。協奏曲といってもソロとアンサンブルはアンバランスに並走する。広上はいとも簡単に巨大なスコアを繰っていく。米元もさすが譜面台を置いている。
 聴き手は無調で不協和なリゲティの音楽を解明しようなどと大それたことは考えない。ただその音響にゆだねる。
 第1楽章から擦過音が飛び交い、混沌としたリズムが膨れ上がる、鍵盤打楽器は独奏者とのユニゾンが多くあって合わせるだけでも大変そうだ。第2楽章は意外にもアダージョのような詩情がある。途中、木管奏者が本来の楽器をリコーダーやオカリナに持ち替え、調子はずれな音を吹き鳴らす。第3楽章は激烈、カオスの一歩手前の雰囲気。第4楽章は遠くからバロック音楽が聴こえてくる。最終楽章にはカデンツァがあり、何をどう弾くかは奏者に任されている。YouTubeでのコパチンスカヤは、自らのヴァイオリンに合わせて歌い、楽員や会場を巻き込んで叫んだ。米元は歌ったり叫んだりはしない。プログラムノートによれば初演者ガヴリロフのカデンツァに基づいて弾いたようだ。太く豊かな音、多彩な音色で堅苦しさや無愛想さはなく、まさしくヴィルトゥオーゾの至芸としてうならせた。
 いつのまにか感情の波が寄せてきて、知らず知らずのうちに身体が反応していた。ソロもオケも見事な演奏だった。いわゆるゲンダイ音楽でこんなに興奮したのは初めてかもしれない。もう一度聴きたいと思ったほどだ。

 後半はシューベルトの「グレイト」、最近はこの「グレイト」を通し番号では「第8番」とすることが多いようだ。レコードの時代は「第9番」とされていたはず。
 調べてみると、戦後シューベルトの作品目録を作成したドイチェが、それまで未完のものを除いて「第7番」と呼ばれていたこの作品を、演奏される未完の2曲を含め「第9番」とし、それが定着し親しまれていた。ところが、20世紀の終わりころドイチェ番号の改定が行われ、自筆譜のままで演奏できる交響曲は8曲ということで「第8番」とされ、現在はこの「第8番」に統一されつつあるという。つまり「グレイト」は「第7番」→「第9番」→「第8番」と変遷して来たわけだ。
 紛らわしい。新しい研究成果に基づき通し番号を付け替えれば混乱するのは無理ない。モーツァルトの場合は最初のケッヘル番号を大事にし、交響曲の通し番号も実際何曲あるのか知らないが「第41番」まで不動である。ブルックナーだって9曲以外に「0番」「00番」とあって当初の番号は変更していない。通し番号も作曲年順だったり、出版年順だったり、そもそも全体数と番号とが対応しないこともある。通し番号といってみても馴染んだ記号、愛称に近いわけで、最新の研究結果でもってそれを屡々変更するのはどうかと思う。
 それに交響曲でいう「第9番」は、“第9の呪い”などと面白おかしくいわれ、ベートーヴェンから始まり、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラー、ヴォーン・ウイリアムズなど「第9番」以降の交響曲をつくることができなかった作曲家を列挙して遊ぶことがある、そこからシューベルトを外す必要はないだろうに。
 もっとも“第9の呪い”などというのは与太話に過ぎない。ブルックナーやマーラーは9曲以上の交響曲を作曲しているし、ドヴォルザークの「新世界から」は最初「第5番」と呼ばれていたのだから“第9の呪い”などは作り話の類である。でも、人は事実であろうとなかろうと物語さえあれば余分に楽しめるわけで、その楽しみはそっとしておいたほうがいいのではないか、というだけの余談である。
        
 さて、広上の「グレイト」は、近年流行りの速めのテンポによるエキセントリックな演奏ではなく、恰幅が良くまろやかでコクのある落ち着いた演奏である。古風といってもよい。冒頭のホルンの導入部も刺激的ではなく、それに導かれる弦楽器の響きも神秘的だ。推進力に富んでいながらリズムは柔らかくノスタルジックな雰囲気さえある。鄙びた辻音楽を連想させるスケルツォのトリオはこの曲の中で一番好きな箇所だけど、理想的なテンポと節回しで感情を大きく揺さぶる。広上は最終楽章のコーダに向けてスコアを閉じた。両手を広げ、身体を左右に振ってオケを駆り立てる。音楽が集中力を高めながらスケールを増し大団円をつくりあげた。円熟の指揮者の為せる業である。
 コンマスは扇谷泰朋。木管のトップは真鍋恵子、杉原由希子、伊藤寛隆、田吉佑久子。金管はホルンが信末碩才、トランペットがオッタビアーノ・クリストーフォリ、トロンボーンのトップは不明だが、トロンボーン隊として最上の仕事をした。ティンパニはエリック・パケラ。これはベストメンバーだろう。弦管打楽器とも至福の音を出していた。