2022/5/3 宮城敬雄×シティフィル 英雄とブラ四2022年05月03日 19:22



指揮者 宮城敬雄 デビュー25周年記念

日時:2022年5月3日(火) 14:00開演
会場:紀尾井ホール
指揮:宮城 敬雄
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
演目:ベートーヴェン/交響曲第3番 変ホ長調
          作品55「英雄」
   ブラームス/交響曲第4番 ホ短調 作品98


 「優れたビジネスマンとしての経歴を経て、音楽家として成功した」(ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団、ピーター・ショポヴ会長)といわれる宮城敬雄のデビュー25周年記念公演。現在、80歳手前だから50歳を超えてから指揮活動を開始したわけだ。会社経営を子供にまかせ、第二の人生の出発点に選んだのが指揮者。クルト・レーデルやホルストシュタイン等に指導を受け、2000年にスロヴァキアフィルを指揮しヨーロッパデビュー、主にロシアや東欧の楽団を指揮してきた。国内では出身の一橋大学関連のオケとの縁が深いようだ。
 多分、シティフィルとホールを借り切っての記念公演だろう。名曲を2つ並べたプログラム。

 オケは10型の変形。フルートの竹山愛、クラリネットの山口真由、ファゴットの皆神陽太、ホルンの谷あかね、トランペットの松木亜希などが出演していたが、コンマスの執行恒宏(パシフィックフィルハーモニア東京)はじめ、管・弦ともかなりのトラ奏者が参加していたようだ。
 
 「エロイカ」は裂帛の気合でもって押し通した。ブラームスも枯淡の「4番」というよりは情念が燃えたぎるような演奏。シティフィルのトップ奏者たちは好調を維持している。耳に残る良い音を出していた。

 紀尾井ホールは、ライナー・ホーネックが首席指揮者のときの紀尾井ホール室内管弦楽団の定期公演以来。素晴らしい音響空間を堪能した。

下草2022年05月08日 15:08



 金木犀(キンモクセイ)の足元に幾種かの下草が植えてある。奥に五色南天(ゴシキナンテン・別名お多福南天)が3株、その左右に富貴草(フッキソウ)と吉祥草(キチジョウソウ)。富貴草の手前に初雪葛(ハツユキカズラ)、吉祥草の手前に白竜(ハクリュウ)。そして、正面に大崖石榴(オオイタビ)とリシマキア(別名オーレア)、さらには、藪柑子(ヤブコウジ・別名十両)である。いかにも、名前だけでも縁起がよさそうな下草が元気よく集まっている。

 大崖石榴(オオイタビ)とは聞きなれないが、フィカス・プミラという名で知られる観葉植物と同じ。園芸品種のサニーホワイトは班入りの小さな丸い葉を沢山茂らせ、100均でも扱うくらい広く流通している。フィカス・プミラとは名前からして洋物風だが、実際は仰々しい和名を持つ日本各地に自生する常緑のツタである。手持ちのオオイタビの葉は班入りではなく緑一色の原種に近いもので、さまざまな下草の中にあっても落ち着いた雰囲気で収まっている。ただ、このオオイタビ、幼木のうちは繊細な観葉植物そのものだが、古株になると葉も大きく別の植物かと思われるほどに成長するらしい。登攀力が強くボリュームも出てくるため、こまめに刈り込んで小さく仕立てるなど、ちょっと注意をしなければならないようだ。

 いま、リシマキアの黄色い花が咲き出している。リシマキアも種類豊富なサクラソウ科の観葉植物。植えたミッドナイトサンという品種は、銅葉がシックで黄色い花との対比が美しい。毎年リシマキアは匍匐しながら領土を広げている。主にオオイタビとの陣地争いで、今のところリシマキアのほうが優勢だ。富貴草もようやく花を付けはじめた。吉祥草に花を咲かせると縁起がいいと言われるが、これは残念ながらまだ花を見ていない。

 肝心の主人公である金木犀は、いつまでたってもひょろひょろと頼りない。もともと1m足らずの幼木だったうえ葉が病気がちでなかなか順調に生長してくれない。下草たちの勢いを少し分けて貰うといいのに。

2022/5/14 阪哲朗×神奈川フィル グレイト2022年05月14日 19:11



神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会第377回

日時:2022年5月14日(土) 14:00
会場:神奈川県民ホール
指揮:阪 哲朗
共演:ピアノ/クレア・フアンチ
演目:酒井健治/Jupiter Hallucination
        「ジュピターの幻影」
   モーツァルト/ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503
   シューベルト/交響曲第8番ハ長調D944
        「グレイト」


 沼尻監督の就任披露公演へ行くことができなかったため、今日が新シーズンはじめての神奈川フィル。
 昨年の音楽堂シリーズ「モーツァルト+」で名演を聴かせてくれた阪哲朗が、定期演奏会に初登場。共演はピアノのクレア・フアンチ。

 酒井健治の曲は、モーツァルトの「交響曲第41番ハ長調」に着想を得た作品。「ピアノ協奏曲第25番」もハ長調。「グレイト」はもちろんハ長調で、演奏会案内のチラシの謳い文句が「純真無垢、ハ長調の誘い」とあった。
 調性が純真無垢を想起させるとして、「グレイト」や「ピアノ協奏曲第25番」がそうであるかどうかは別だけど、魅力的なプログラム。

 酒井健治の「ジュピターの幻影」は、拍子木や鼓のような和の響きの中から「ジュピター」のさまざまな場面が浮かび上がっては消えていく。基本、無調で筋書きが見えないし、頂点も定かでないから、15分程度の演奏時間がちょっと長く感じた。
 
 モーツァルトが書いた番号付きのピアノ協奏曲は27曲。最初のオリジナル作品である「5番」(1~4番は編曲)からして傑作なのだから、どれもこれも魅力がふんだんに詰まっている。そのなかでも「20番」以降の8曲は頻繁に演奏会で取り上げられる。「20番」と「24番」は劇的な短調作品、「21番」「23番」「27番」は慎ましく内省的、「22番」「25番」「26番」は華麗で祝祭風。
 「25番」は、かってジュピター協奏曲という渾名を付けられたこともあった。自身の予約演奏会のために作られた最後の協奏曲ではなかったか。先行する「21番」ハ長調と「24番」ハ短調とを発展させた作品と言えるし、最初の祝祭的な協奏曲「5番」を完全無欠なまでに完成させた作品とも言える。
 クレア・フアンチの音色はモノトーン寄り。装飾音を結構混ぜていたが、色彩豊富とまではいかない。それほど音量もない。第1楽章は勝利の行進曲、第2楽章は歌があふれ、第3楽章は壮麗に完結し、純真無垢というより堂々とした力強い作品だが、こじんまり纏まってしまった。

 グレイトは、いま「8番」とすることが多いけど、昔から「9番」で馴染んできた。あるいは「9(7)番」と印刷されたレコードジャケットもあった気がする。完成した作品の7番目、未完を含めた作品の9番目ということだったと思うが、「8番」というのは近年の研究の結果なのだろう。“交響曲「第9」のジンクス”を成立させるためには、「9番」としてこじつけたままのほうが良かった、と馬鹿なことを言ってみる。
 この曲は、シューマンが発見し「天国的な長さ」と評して有名。楽章構成、楽器編成は古典的だが、楽器を効果的に使って響きを重層的にし、様々な音色を生み出している。金管ではホルンとトロンボーン、木管ではオーボエとクラリネットの活かし方が秀逸。第4楽章にはベートーヴェンの「第9」からの引用がある。なるほどシューベルトはベートーヴェンに感化され、ブルックナーはベートーヴェンとシューベルトからその衣鉢を継いだ。
 阪哲朗は、繰り返しをほとんど省略せず、それでも60分は切っていたから、テンポとしては快速の部類だろう。指揮ぶりは各パートというより奏者それぞれに指示を出していると思えるほど細かい。付点音符、三連符が身体を揺らせ、転調、和声進行が絶え間なく景色を変え、同音連打、オスティナートが興奮させる。純真無垢というより雄大で自在な曲だ。ただ、阪哲朗の「グレイト」、才気煥発過ぎてちょっと窮屈になってしまった。

カーチュン・ウォン、日フィルの首席指揮者に就任2022年05月20日 16:41



 日フィルの首席客演指揮者であるカーチュン・ウォンが、来年9月より首席指揮者に就任する。任期は5年。現首席のピエタリ・インキネンと交代する。

 https://japanphil.or.jp/orchestra/news/25064
 https://ebravo.jp/archives/118296

 カーチュン・ウォンはシンガポール出身の30歳半ば。2016年のグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝している。
 奥様が日本の方で住居がこちらにもあるため、このコロナ禍、ほぼ同い年の原田慶太楼ともどもしばしば渡航不能となった海外指揮者の代役を務めてくれた。

 来週、タイミングよく日フィルの定期演奏会に登場。伊福部とマーラー。チケットは確保済。楽しみに待ちたい。
 さらに来年は、再び伊福部を取り上げ、芥川やヤナーチェクを振る。演目はなかなか魅力的。苦手意識が払拭できるといいけど。

2022/5/22 ノット×東響 ベルシャザールの饗宴2022年05月22日 20:18



東京交響楽団 川崎定期演奏会 第86回

日時:2022年5月22日(日) 14:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ピアノ/ペーター・ヤブロンスキ
   トランペット/澤田 真人
   バリトン/ジェームズ・アトキンソン
   合唱/東響コーラス
演目:R.シュトラウス/ドン・ファン op.20
   ショスタコーヴィチ/
     ピアノ協奏曲第1番ハ短調 op.35
   ウォルトン/ベルシャザールの饗宴


 「ドン・ファン」はR.シュトラウスの出世作。20歳そこそこの作品というのだから驚く。ドン・ファン=ドン・ジョヴァンニの音楽といえば、まずはモーツァルト31歳のときの歌劇が一等だが、それに続く有名曲だろう。
 いきなり弦楽器による激しい上行音階で幕を開け、あっという間に最高音に達する。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「英雄の生涯」と同様、R.シュトラウス得意の曲冒頭で音空間を支配してしまう。ノットの速度は尋常ではない、弦が悲鳴をあげる。上品な東響の弦も最近は強靭になった。
 場面が変化し、ヴァイオリンソロによる甘美な旋律が出現、ドン・ファンが口説く。ここでのノットはぐっと速度を落とす。その後、音楽は何度も頂点に到達するものの、急転直下奈落の底へ、ということを繰り返す。東響の演奏の核である木管の調べが心に沁みる。
 終盤、音楽はどんどん加速して、突然悲痛な最期を暗示するかのように終わる。この終結部での響きは、R.シュトラウス晩年の「メタモルフォーゼン」や「4つの最後の歌」などでも聴くことができる。あんなに現世的、世俗的にみえるR.シュトラウスであっても、若者のときから死の響きを抱えて生きてきた。

 ショスタコーヴィチの「ピアノ協奏曲第1番」は、「ドン・ファン」がR.シュトラウスの出世作であったように、ショスタコの出世作といってもいい。音楽院の終了制作である「交響曲第1番」や、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」というとんでもない先行作品はあるけど、大成功という意味ではこの作品ではないか。今でも人気が高い。正式には「ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲 ハ短調」という。
 しかし、二重協奏曲というにはトランペットがピアノと対等に競わない。トランペットは、あっちを向いたりこっちを向いたり、合いの手を入れる。ピアノがトランペットを邪魔することもある。その掛け合いが面白い。自作の引用のほかパロディだらけらしいが、原曲を知らなくてよく分からない。4楽章あるいは3楽章で構成され連続して演奏される。ショスタコらしくアイロニーに満ち、シニカルでコミカルで楽しい。
 ペーター・ヤブロンスキのピアノは、ペダルを多用し諧謔、冷笑というよりどこか優しい。澤田さんのトランペットも柔らかく、お互いのやり取りが暖かい。それでも第2楽章はしみじみと、ショスタコの不気味さに背筋がぞくっとした。二人のソリストは演奏を楽しんでいるよう。それ以上にノットは興に乗る。見ていてニンマリ。
 ヤブロンスキのアンコールは、ショパンのマズルカ(遺作)、ここでも死の影が忍び寄る。

 今年、ウォルトンは生誕120年のアニヴァーサリーを迎える。同国人のレイフ・ヴォーン・ウィリアムズも今年生誕150年。
 ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」は、オルガン、ピアノ、大編成の打楽器、二組のバンダ、混声合唱、バリトン独唱という大がかりな作品。『ダニエル書』に基づくユダヤ人がバビロン捕囚から自由を回復する物語。バビロニア王ベルシャザールのヤハウェ冒涜と異教徒崇拝の饗宴をきっかけに、バビロニアが崩壊するまでを描く。ウォルトン20歳後半の作品、またしても20代! 
 もちろん英国では人気曲だが、わが国でも結構演奏される。これは尾高忠明の功績、何度か振っている。大昔、その尾高指揮で聴いているが、細部までは覚えていない。今回は公演中止となった2020年のリベンジ、アニヴァーサリーにふさわしい壮大な曲である。
 バリトンのジェームズ・アトキンソンは凄みのある語りというか歌というか。100名を超えた東響コーラスはいつものように暗譜。オケは16型、オルガンの左右にはバンダ。下手のバンダには疲れも見せず澤田さんが参加していた。
 20世紀の音楽らしく肥大したスペクタクル絵巻。和声、旋律の美しさというよりオケと声楽が混然一体となった響きの面白さを楽しむ曲だろう。ミューザは音の大洪水のなかでも各楽器が明瞭に分離し飽和しないから、より一層曲が引き立つ。ノットの強烈なドライブが爽快だった。


 「ドン・ファン」は7、8年前のミュンヘン・フィル来日公演が強く印象に残っている。メインプログラムはブルックナーの「交響曲第4番」で、これも素晴らしかったが、それ以上にR・シュトラウスが良かった。指揮はゲルギエフ。
 ゲルギエフはミュンヘンを追い出された。ネオナチ掃討を掲げてウクライナに侵攻したプーチンと親密だからということらしい。どうして音楽家が政治の犠牲になるのか、ドイツの対応は偽善も極まれりというべきだろう。
 R・シュトラウスは、一時ナチの協力者ということで活動を制限された。フルトヴェングラーも同じだ。二人は祖国に留まった。あの過酷な時代に翻弄されながら。ショスタコーヴィチはどうか。専制政治の擁護者、体制派だといって批判されたこともあった。音楽家たちは、強権と対峙するなかで、命の危険に晒されながらも、彼らなりに生き抜いてきたのではなかったか、後知恵で糾弾するのは容易い。


 ナチといえば、ロナルド・レーガンの下で経済政策の財務次官補を務めたアメリカの経済学者ポール・クレイグ・ロバーツがこんな警鐘を鳴らしている。

 https://www.paulcraigroberts.org/2022/05/11/watching-the-western-world-dissolve-into-nazism/

 ひょっとしたら、現代は「ベルシャザールの饗宴」の最中にいるのでは。
 西欧というバビロニアが、崩壊しつつあるのかも知れない。少なくともオーウェル的世界が、刻一刻と目の前に迫ってきている。


 以下は、上記ブログの機械翻訳である。


西側世界がナチズムに溶解するのを見ながら 

トランプ大統領の言論の自由は、誰がツイッターを所有しているかに依存する

ポール・クレイグ・ロバーツ

 例外的で不可欠な米国において、元米国大統領が憲法で保障された言論の自由を、民間の通信会社によって否定されるとはどういうことだろうか。

 たかが私企業が、どうして米国憲法と権利章典を取り消すことができるのだろうか?

 憲法で保証された最低のアメリカ人の権利が、元アメリカ大統領にとって、誰がツイッターを所有しているかに左右されるなんてことがあるのだろうか?Facebookは? Googleは? そして、ニューヨークタイムズは?

 アメリカ人、特に保守派は、元アメリカ大統領が私企業のCEOによって憲法上の権利を取り消されたり、認められたりすることがあるのに、どうして自由な国に住んでいると思うことができるのだろう?

 これは、「民間企業」が政府を支配しているケースではないだろうか?

 事実、開かれた議論、真実へのアクセスを否定されて、どうして人々が自由でいられるのだろうか?

 国土安全保障省のトップは、ナチス時代の機関であり、現在アメリカの支配的な役割を担っているが、公式の物語に挑戦するすべての人を締め出す力を持つアメリカ真実省を設立した。大統領府が、ナチス時代のゲシュタポのような、真実を抹殺する権限を持つ機関をあえてアメリカに設立することが、どうして可能なのだろうか? そして、それでも国民の45%から支持されるのだろうか? 国民の45%が想像を絶するほど完全に愚かな国が、どうして生き残ることができるのだろうか?

 「バイデン民主党」はどうしたのだろうか? 彼らは、自由、解放、国の創設者がそのために戦った権利が危機に瀕していることを理解できないのだろうか?

 真実より価値のあるものがあるのだろうか?

 少数派の権利、人種の権利、トランスジェンダーの権利、レズビアンの権利、同性愛者の権利、そして明日発見されるであろうどんな新しい権利も、なぜ真実よりも重要で価値があるのだろうか?

 アメリカ国民はどこにいるのか。下院と上院で選ばれた彼らの代表者はどこにいるのだろう? 民主主義の番人であるメディアはどこにいるのだろう。裁判所、法科大学院、法律家協会、憲法で保護された権利である言論の自由に基づく自由を守るために立っている抗議者たちはどこにいるのか? なぜ影響力のある団体は合衆国憲法によって与えられた権利を擁護しないのか? アメリカのどの大学も弁護士会も、真実がエリートに都合の良いフィクションにすり替えられることに抗議していない。

 なぜアメリカ人は、アメリカのナチス、「国土安全保障」のトップがアメリカにオーウェル的な国家を作る間、ただ座っているのだろうか? 自由な国と言われるアメリカで、バイデンが任命した国土安全保障省のトップが、彼のゲシュタポ機関が、アメリカ合衆国の真実を決定する権利を持っていると言うのを、我々は目撃したばかりだ。

 アメリカでは、真実に対する敬意は非常に弱く、ナチがまだアメリカの“国土安全保障 ”のトップである。アメリカのナチスは解雇されなかった。検閲を合衆国憲法より高く掲げたことでも、彼は叱責さえされなかった。

 西側諸国が“自由な国”であることは、大いなるジョークである。西側世界全体が徹底的にナチス化しているのだから、ナチス化した西側諸国政府が、飛来する極超音速ICBMから自分たちの存在を脅かされながら、ウクライナのナチス政権を支持しても不思議はない。プーチンはロシアの自由主義者であり、したがって弱い。しかし、プーチンはロシアが西側のナチズムに屈するのを許すほど弱くはないのだ。間抜けなアメリカ人がトランスジェンダーの権利やナチス・ウクライナの境界線について心配している間に、終わりの時が近づいている。アメリカ人は、合衆国憲法で保証された自分たちの権利を完全に忘れ、それを守るために何もしていない。

 西洋の自由は、征服者によってではなく、西洋自身によって、歴史のゴミ箱に投げ込まれたのだ。