2026/1/18 ソヒエフ×N響 マーラー「悲劇的」 ― 2026年01月18日 19:12
NHK交響楽団 第2054回 定期公演 Aプログラム
日時:2026年1月18日(日) 14:00 開演
会場:NHKホール
指揮:トゥガン・ソヒエフ
演目:マーラー/交響曲第6番イ短調 「悲劇的」
1年ぶりのソヒエフである。意外なことにN響とのマーラーは初めてだという。選んだのは「交響曲第6番 悲劇的」。マーラーの交響曲のなかでは最も古典的な佇まいでありながら新しさを一杯詰め込んだ意欲的な作品だけど、なかなか“これ”といった実演に出会えない。聴き手にとっては難攻不落ともいうべき楽曲のひとつで、ソヒエフがどう腕を奮って料理するのか興味津々であった。
全編、息をのむような美しさ。悲劇とか闘争とかを思い浮かべるより、ただただ音と響きと音楽の美しさに身を委ねていた。神経症的なところや尖ったところの少ない言わば健康的なマーラーだから賛否は分かれるかも知れない。
行進曲は暴力的でも威圧的でもなく音楽性を失わず、これは昨年のショスタコーヴィチでも同じだった。何度かあらわれるアルマのテーマはその都度少しずつ陰影と色彩を変えつつ限りなく美しい。途中、こんなにマーラーの音楽が耽美的でいいのか、と思わず呟いたほどだった。
ソヒエフのコントロールは桁違いの水準、振りすぎることなく、奏者に任せるところは任せながら、音は緻密かつ明晰、各楽器のバランスが崩れることも一切ない。N響の反応は敏感で、弛緩のない渾身の演奏をくりひろげた。指揮者に恵まれたときのN響の凄みに改めて圧倒された。コンマスは郷古廉。
今日の演奏が「悲劇的」の決定版かどうかについては何とも言えないけど、これほど美しい「悲劇的」はきっと長く記憶に残ることになるだろう。
2025/11/30 音大オケ・フェス チャイコフスキー、マーラー、ベルリオーズ ― 2025年12月01日 14:58
第16回音楽大学オーケストラ・フェスティバル2025
武蔵野音大・東京音大・洗足音大
日時:2025年11月30日(日) 15:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
出演:武蔵野音楽大学(指揮/原田慶太楼)
東京音楽大学(指揮/松井慶太)
洗足学園音楽大学(指揮/下野竜也)
演目:チャイコフスキー/交響曲第4番ヘ短調(武蔵野)
マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」(東京)
ベルリオーズ/幻想交響曲(洗足)
月が替わって12月になってしまったが、昨日、毎年恒例の音大オケ・フェスの2日目を聴いた。初日の東京芸術劇場はパスしたが、来週のミューザ川崎の最終日は聴く予定である。
原田慶太楼×武蔵野音大のチャイコフスキーでスタート。
全楽章をアタッカでつなげ激烈で火が燃え上がるような演奏。最大限の緩急と強弱、スピードは違反レベル、音量は限度一杯、やりたい放題と形容していいほど。学生オケだからこそ可能となった演奏だろう。プロオケだったら楽団員から顰蹙を買いそう。もっともチャイコフスキーの交響曲だから許容範囲というべきか。とまれ原田の外連味たっぷりの曲芸的な解釈に武蔵野音大はよく食らいついて行った。
原田慶太楼は現在東響の正指揮者だけどノットと同様今シーズン限りで退任する。コロナ禍のとき来日不能となった海外指揮者の代役として全国各地のオケを振って話題となった。当時はまさに八面六臂の活躍でオケの事務局からは頼りにされていたに違いない。東響を退任したあとは愛知室内オーケストラの首席客演指揮者やアメリカにおける音楽監督の活動が中心となりそうだが、引き続き各地のオケを指揮してくれるはず。来シーズンは神奈川フィルの定期にも登場する。
次いで、松井慶太が東京音大を振ったマーラー。
松井はこの夏にアマオケのシベリウスとベートーヴェンを聴いていたく感心した。この音大オケ・フェスでの公演を楽しみにしていて、結果は期待を遥かに上回った。全体の雰囲気は穏やかで大声で叫ぶことはないものの。ひとつひとつの音に神経が行き届き、それぞれの音が各楽章の核心に向かって行く。そして、必然であるかのように曲全体の頂点へ収斂し解放される。マーラーの心の奥底、感情の揺らぎが聴き取れるようだった。第1楽章の副題でいう「春、終わりのない」の鳥のさえずり、第2楽章のロットからの引用、第3楽章の葬送行進曲と突然の民謡風の調べ、終楽章の騒擾と静寂、いずれもこれ以上ない理想的というべき演奏だった。
編成は管楽器が4管、打楽器も多分最終稿通りなのに、第1ヴァイオリンは10人しかいなかった。チェロ、コントラバスは増強されているものの、ヴァイオリンはセカンドを含めても明らかに不足している。楽器のバランスが難しいのではと危惧したが無用な心配だった。最初から最後まで崩れることなく均衡を維持し全く気にならなかった。終演後、聴衆の何人かがスタンディングオベーションで称えていたがさもありなん、入魂のマーラーだった。
松井の指揮姿は武骨で不器用といえるほどだが、つくりだす音楽は広上や川瀬より汐澤の衣鉢を継いでいるように思える。汐澤や飯守の亡きあとの指揮者を見つけ出したかも知れない。今のところ首都圏のプロオケを振ることが少ないが、とりあえずパーマネント・コンダクターを務めるOEKの東京公演のチケットを取りたい。
最後は下野×洗足音大のベルリオーズ。
休憩を挟んだものの松井慶太×東京音大の余波で第1楽章は呆然としたまま通り過ぎてしまった。ぼんやりしたまま全曲が終わるのかと懸念したがとんでもない。下野はもともと誠実な音楽家で、毎回大きく失望したことはないが、この「幻想交響曲」でも楽譜に隠れている思いがけない音を引き出して微笑させ、楽章を追うごとに熱量をあげ迫真の演奏を繰り広げた。
とくに第3楽章の「野の風景」をきっかけにして、「断頭台への行進」「魔女の夜宴の夢」における狂乱ぶり、奇怪さは下野の別の一面をみたかのよう。それでいて細部まで統制は行き届き、圧倒的なクライマックスを築いた。洗足音大はずっと秋山さんの指導あってのオケであったが、よき後継者を得たようだ。
演奏会は3時に開始された。普通ならメインプログラムとなる1時間近い作品を3曲並べ、それぞれの楽曲の前には共演校からエールをこめたファンファーレが演奏された。楽曲の間には20分間の休憩が置かれ、終了したのは大方7時だった。4時間もホールにいた勘定になる。
3校の共演はさすがに辛い。毎年、年齢が加算され疲れも酷くなる。来年はプログラムノートの記載によると昔のように2校ずつ4日間の日程となっている。この改善は大歓迎である。
2025/11/23 ノット×東響 マーラー「交響曲第9番」 ― 2025年11月23日 21:51
東京交響楽団 名曲全集 第212回
日時:2025年11月23日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:笙/宮田 まゆみ
演目:武満 徹/セレモニアル
マーラー/交響曲第9番 ニ長調
東響の定期演奏会(サントリーホール)と名曲全集(ミューザ川崎)にノットが監督として登場するのはこれが最後となる。演目は12年前にノットが監督就任した最初の定期演奏会と全く同じである。
この間、ノットのマーラーでいえばやはり就任記念の「第9番」が一番記憶に残っている。お互い手探りではあったけど緻密かつ繊細な演奏で、この時はじめてマーラーの「第9番」が、喪失とか崩壊とかというネガティブな世界だけではなく、エネルギーが充溢し希望に満ちた音楽だと気付いて吃驚したことをよく覚えている。
今日の「セレモニアル」は笙の宮田まゆみがP席上段のホール・オルガンの横に位置し、2階席正面と3、4階席のバルコニーに3組の木管奏者が並んだ。丁度、ソリストと木管奏者が上方から舞台を囲むような配置である。宮田さんは前回同様白装束、さすが御歳を召された。10分ほどの武満の楽曲が終わり、休憩なしでそのままマーラーの「交響曲第9番」となった。もっとも楽器の追加や木管奏者が舞台上に戻るまでの時間が必要で、「第9番」の開始は2時半近くになっていた。
マーラーの「交響曲第9番」は当然ながら気合が入っていた。会場は息苦しくなるほどの緊張感が漂う。とは言っても、縦横無尽のノットの指揮に柔らかく応じる東響のレスポンスには感心する。ノットは全体をきっちり設計し、練習では厳しい要求を突きつけていると思うが、本番では勢いと熱気のまま当意即妙に動く。東響の反応力と融通性を信頼してのことだろう。響きは立体的で音が密集している、振幅は大きく平板になるという不満がない。厳格というよりは精緻で柔軟、まさに十数年にわたった両者の集大成といえる演奏だった。
第1楽章の冒頭はチェロとホルンによって不規則なリズムでひそやかに始まる。ハープの短い旋律が続く。ホルンは2番奏者が吹く。藤田麻理絵のゲシュトップト奏法の音色が印象的。そして、第2ヴァイオリンによる「大地の歌」の告別のテーマがはっきりと聴こえてくる。その後、音楽は幾度もフォルテが訪れ激しく苦闘し、最後は安らかに終わる。フォルテの主題はいずれも威圧的で破壊的なものだが、強く耳に残ったのは「永遠に…」という告別のテーマだった。
第2楽章は舞曲。まずは皮肉っぽいレントラー、無骨で粗野な踊り。次いで速いテンポのワルツ、優雅どころか荒々しい。最後は再びレントラー舞曲、ここでも「告別のテーマ」が紛れ込み舞踏は終わる。
第3楽章はブルレスケ。ノットのスピードは狂気をはらみ、乱雑な道化芝居のようであったが、東響の演奏は冴え渡り混乱は全くない。途中、美しくも天国的な世界を垣間見せるが長くは続かない。音楽は再び狂喜乱舞へ。極めて挑戦的で闘争的な演奏だった。
終楽章はアダージョ。弦楽合奏を中心にした崇高ともいえる音楽。ゆっくりと穏やかに弦楽器の音が重ねられ、クライマックスの後に長い静寂が訪れた。コンマス・小林壱成、チェロトップ・伊藤文嗣のソロが秀逸で、ノット×東響は渾身の演奏だった。告別ではあってもそれは悲劇や絶望ではなく、広々とした将来を展望するようなメッセージがこめられているように思えて落涙した。
ノットと東響は、このあと年末に「第九 2025」と「ジルベスターコンサート 2025」を演奏してお別れとなる。
2025/4/27 ルイージ×N響 マーラー「交響曲第3番」 ― 2025年04月27日 21:09
NHK交響楽団 第2036回 定期公演 Aプログラム
日時:2025年4月27日(日) 14:00 開演
会場:NHKホール
指揮:ファビオ・ルイージ
共演:メゾ・ソプラノ/オレシア・ペトロヴァ
女声合唱/東京オペラシンガーズ
児童合唱/NHK東京児童合唱団
演目:マーラー/交響曲第3番 ニ短調
ルイージとN響の組み合わせは初めて。ルイージについては過去2度、PMFとデンマーク国立響を指揮したとき聴いている。PMF東京公演の演目は全く思い出せない。デンマーク国立響とは美歩・シュタインバッハ―をソリストとしたブルッフとベートーヴェンの「第7番」だった。ブルッフには感心したけどベートーヴェンは勢いばかりが空回りしているようで散々だった。それ以来足が遠のいている。
今回はマーラー「第3番」に魅かれてチケットをとった。来月のN響ヨーロッパ公演、アムステルダムでの「マーラー・フェスティバル2025」における演目のひとつだという。マーラーの「第3番」といえば、随分むかし、N響ヨーロッパ公演でインバルが指揮したことがある。そのときの放送を思い出す。インバルのそれはマーラー演奏のひとつの到達点だと思わせるものだった。その後、都響との実演に接したときにも同じことを感じた。果たしてルイージはどうだろうか。
テンポよくホルン9本の斉奏のあと、速度を緩めパウゼをたっぷり取る。音楽が分断されうまく流れていかない。節回しには癖というか変な抑揚がある。楽想の終わりをテヌート気味に処理するのも止めてほしい。名手揃いのN響だから大きなミスはないものの、金管奏者などは吹き難そうに思えた。もどかしいまま開始楽章が終わる。その後も違和感は払拭されず、メヌエットもスケルツァンドも何となく通り過ぎていく。メゾのオレシア・ペトロヴァの声は魅力的だけど、合唱は人数が多いせいか透明感に欠けた。最終楽章は弱音を意識しすぎて美しさが損なわれた。巨大な交響曲なれど軽みと高貴な音色がほしい。全体に結構を大きくしたいとの意図があからさまで、もったいぶった演奏に感じられた。
ルイージは今もデンマーク国立響のシェフだと思うが、ドレスデン国立歌劇場の音楽監督やメトロポリタン・オペラの首席指揮者、ウィーン交響楽団やスイス・ロマンド管弦楽団などはすでに卒業している。赫々たる経歴の持ち主ながら相性があまりよろしくない。久しぶりの2日連続の演奏会、疲れが倍加したようだ。それはともかく、N響のヨーロッパ公演の成功を祈りたい。
2025/2/25 川瀬賢太郎×名フィル マーラー「交響曲第6番」 ― 2025年02月26日 11:33
名古屋フィルハーモニー交響楽団
東京特別公演
日時:2025年2月25日(火) 19:00開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール
指揮:川瀬 賢太郎
演目:マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」
名フィルは森正あたりから聴き始め、外山雄三やモーシェ・アツモンを経て、飯守泰次郎、沼尻竜典の時代に数多く通った。前任の小泉和裕が率いた東京公演にも2、3度足を運んでいる。川瀬賢太郎が監督になってからは初めて。加えて、葵トリオの小川響子が昨年の4月からコンマスに就任している。
名フィルのコンマスは、長く務めた日比浩一が退任し小川響子が入り、森岡聡、後藤龍伸に加え、客演に荒井英治と山本友重を擁している。コンマス5人体制は豪華である。まぁ、名古屋を中核とした東海地方は大手メーカーが集中しており、とうぜん寄付もあって楽団の財政は裕福なのだろう。
今回の東京特別公演は、その小川響子がコンマスを担い、チェロのトップには同じ葵トリオの一員であり都響首席の伊東裕がゲストで座っていた。演目は川瀬賢太郎の得意なマーラー、潔く「交響曲第6番」の1曲のみ。完売公演となった。
弦は16型、管楽器は4ないし5管編成、ありとあらゆる打楽器が並び、大きくないオペラシティコンサートホールの舞台からはみ出しそうだった。ホールは容量も小ぶりだから飽和する音を懸念したが心配は無用だった。音圧は在京のオケでもあまり経験したことがないほどの強度にもかかわらず、騒々しさも音が不鮮明になることもなかった。川瀬のバランス感覚によるものだろう。川瀬は少し恰幅がよくなって指揮ぶりも温厚になってきた。
しかし、この「第6番」の音楽は悲劇に焦点をあてるよりは闘争に重きを置いたように荒らぶっていた。もっとも音の解像度は高く、今まで気が付かなかった音が聴こえてきて面白くはあった。ただ、聴き終わって心底感動したかといえば、素直には頷くことができない。途中、夢見るような瞬間はあったとしても、全体を通して壮絶な闘いを見聞しているようで、交響曲としての悲劇への物語性が希薄に感じられたせいかも知れない。
名フィルの演奏水準は随分向上している。東京公演ということで力が入ったせいか、二度の地元公演の疲れが出たせいか、強奏時の木管の濁りや、金管合奏の乱れが多少あったものの、管楽器の鳴りは見事で、弦楽器の進境は著しい。首都圏のオケと比べても全く遜色ない。川瀬とのコンビも順調のようである。
マーラーの「交響曲第6番」は、世俗的にはマーラーの絶頂期。ウィーン宮廷歌劇場芸術監督にしてアルマ・シントラーと結婚し、長女、次女も授かり、まさに幸福の真っ最中に作曲され初演もした。
ところが、どういうわけか産み出された曲は悲劇の塊のようであり、今までの交響曲を破壊せんがごとき願望に満ちている。そして、実生活では、やがてウィーンを追われ、長女を亡くし、妻は浮気、自らは心臓病に苦しめられる、といった未来が待っていた。まるで自らの行く末を予見したような作品となってしまった。
もちろん、これは偶然であって先行した作品と実生活を結びつけるのは間違っている。「第6番」は絶対的な悲劇を描いた、今までにない“新しい交響曲”との出会い、として聴けばいいのだろう。
形は古典的な4楽章。短調交響曲として開始楽章と終楽章に短調を据えたのは、これも定型である。しかし、中間楽章は今もって演奏順の議論が続いている。アンダンテ→スケルツォとするか、スケルツォ→アンダンテとするか、である。
交響曲の構造からいえば、先にアンダンテを置けばより古典派的に、スケルツォが先となるとロマン派的な雰囲気を帯びることになるだろう。聴き手の心理からすると、アンダンテは前の楽章を受け沈静した感情に満たされたところで一旦小休止の気分になる。対してスケルツォはその過激な挙動が次の楽章にエネルギーを補給し、推進力を強めて行く役目を負う。
だから、アンダンテからスケルツォの順で演奏すると、アンダンテが1楽章の闘争や愛を、牧歌的な癒しや安息でもって受け止め一旦落ち着くものの、次のスケルツォの不安定さや異様さが、悲劇の終楽章と連続することによって楽曲全体に強い悲劇性を刻み込む。
一方、スケルツォからアンダンテの順では、第1・2楽章の激情や諧謔をアンダンテが中和し、再生あるいは救いの可能性を示唆して終わる。もっとも、終楽章の悲劇性は変わらないから緊張感は高まるのだけど、アンダンテによる救済がより強く感じられるように思う。
今回の演奏は、最新のラインホルト・クービク校訂によるマーラーが生前に指揮した演奏順序を根拠とするアンダンテ→スケルツォを採用していた。
交響曲は暗から明へ、闘争から勝利へ、というのが従来の定型で、終楽章が悲劇のまま終わる交響曲は、モーツァルトの「第40番」以外にあっただろうか。マーラーだって「第5番」までの交響曲においては、多楽章を試みたり、声楽を導入したりして“新しい交響曲”を目指してはいるけど、終楽章を悲劇として書くことはなかった。
マーラーの終楽章は「第6番」のあと「第7番」で乱痴気騒ぎの破天荒なものとなり、その流れはショスタコーヴィチへそのまま受け継がれ、音楽が音楽から最も遠い政治とさえ拮抗することになる。
「第6番」の異形は楽器編成にもある。4管編成が基本ながら終楽章は5管編成に拡大し、トランペットが6本に増える。そして、なにより打楽器が前代未聞の破壊力を示す。「第4番」で鈴は使ったけど、ここでは、カウベル、ムチ、鐘、木のおもちゃなど一般生活のなかで音が出るものを総動員したという感じで、究極は木製のハンマーまで登場させる。ハンマーは楽曲にドラマ性を付与するための象徴だろうが、当初は5回叩いたという。現在では2回か3回打ち下ろされる。
今回の打撃は2回。舞台後方の中央、ティンパニの横に台座が置かれていて、大柄で丸坊主の首席のジョエル・ビードリッツキーがハンマーを打ち下ろした。視覚的にも迫力満点だった。
配られた名フィルのメンバー表によるとカタカナ書きの団員が4、5人いる。国際色豊かである。首都圏のオケにおいても神奈川フィルや新日フィルなどは演目別に出演者一覧を配布してくれる。こういったサービスはオーケストラを身近に感じることができるのではないか。他のオケにも広がっていくと良い。
マーラーはロットと誓い合ったように、二人して“新しい交響曲”の創始者たらんとした。
この「第6番」では形式は厳密に古典を踏襲しながら――という意味では2、3楽章はアンダンテ→スケルツォ(メヌエット)の順が相応しいと個人的には考えるが――その中身はオケとしての限界を極めた楽器編成や、大胆な鳴り物の採用、発想を転換した楽章の性格付けなど、斬新なアイデアが詰まっている。
“新しい交響曲”という問いに対するマーラーとしての一応の最終回答がこの「第6番」だと思う。