2025/6/28 ボレイコ×新日フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第11番」2025年06月28日 21:56



新日本フィルハーモニー交響楽団
 #664〈サントリーホール・シリーズ〉

日時:2025年6月28日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:アンドレイ・ボレイコ
共演:ピアノ/ツォトネ・ゼジニゼ
演目:ストラヴィンスキー/ピアノと管弦楽のための
             カプリッチョ
   ショスタコーヴィチ/交響曲第11番ト短調
             「1905年」


 ストラヴィンスキーには2曲のピアノ協奏曲があるという。プログラムノートによると、ひとつは「ピアノと管楽器のための協奏曲」、そして、もうひとつがこの「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」。2曲とも聴いたことはない。音盤を持っていないし、実演も初めて。
 「カプリッチョ」はストラヴィンスキーが新古典主義時代の作品、ドライな音楽で反ロマン的といったらよいか、ピアノが打楽器のように活躍する。ストラヴィンスキーの特質であるリズムと音色と音響は健在であるが、情感に訴えることや歌い上げることはしない。軽快な曲運びは好ましいけど、正直あまり面白い曲ではない。プレスト、ラプソディコ、カプリッチョーソの3つの楽章が続けて演奏された。
 ソリストは日本でいえば高校生のツォトネ・ゼジニゼ、ジョージア出身で作曲もするらしい。音楽の世界では昔から早熟の異才が現れる。「カプリッチョ」が20分程度の短い曲だったせいかゼジニゼはアンコールを3曲も披露した。3曲とも自作だと知ってびっくり。

 ショスタコーヴィチの「交響曲第11番」は10年ほど前のラザレフ×日フィルが基準となっている。井上、沼尻、角田、インバル、カエターニなど聴いたが、ラザレフは別格である。今では「第11番」は劇伴音楽として聴けばいいのではないかと冗談もいえるけど、当時は恐怖と混乱がしばらく尾を引いた。いまだに「第11番」の演奏会になると身構えてしまうのはその後遺症が癒えていないためだろう。
 別名「1905年」、ロシアにおける「血の日曜日事件」を描く。帝政ロシア末期、貧困と飢餓に苦しむ人々はサンクトペテルブルグの宮殿前広場に集まった。その民衆に向かって軍隊が発砲し、数千人の死傷者を出す大惨事となる。これが共産主義国家ソヴィエト連邦成立の遠因となった。
 第1楽章「宮殿前広場」、ハープが鳴り、陰鬱な雰囲気の主題が提示され、ティンパニとトランペットの不気味な呟きへと引き継がれる。その上を幾つかの革命歌の旋律が流れる。帝政ロシアの圧政、重苦しさが漂う。ボレイコは音圧を絞り抑圧的な音響で緊張感を高めていく。
 第2楽章「1月9日」、民衆が行進をはじめる。変奏と変拍子が次第に緊迫の度合いを増す。前楽章の主題が鳴り渡ると、突然、スネアドラムを筆頭に打楽器の連打となる、民衆への無差別の銃撃。広場は阿鼻叫喚の地獄となる。ボレイコの描写力は過たない。大音響が止み身動きする者は誰もいない。その不気味な静寂と惨状。
 第3楽章「永遠の記憶」、重々しいしいピチカートに乗って、ヴィオラが革命歌を奏でる。葬送行進曲である。ボレイコはヴィオラの音量を抑える。弔いの鐘のような金管の呻きは慟哭というしかない痛切な叫びとなる。音楽はやがて力尽きるかのように沈黙する。
 第4楽章「警鐘」、決然とした金管楽器の動機は民衆が蜂起する様だろう。ここでも革命歌が引用され、イングリッシュホルンの調べに泣かされる。ボレイコは力任せではなく、むしろ追憶としてのイングリッシュホルンの旋律に焦点をあてた。最後は全管弦楽の強奏のなかで鐘が激しく打ち鳴らされる。このとき普通はチューブラーベルという管状の鐘を何本もセットした楽器が使われるが、今回は金属板をぶら下げたツリーチャイムを鳴らした。楽器の挙動は多少不安定ながら異様な音と残響が鳴り渡った。この民衆のエネルギーともいうべき勇壮なフィナーレにおける鐘は未来へのまさに警鐘のようだ。
 ボレイコの音楽は心身とも巻き込まれてしまいそうな苛烈なものではない。テンポやバランスがよく整えられた堅実でハッタリのない演奏である。作者ショスタコーヴィチが何を訴えようとしたのかを示唆してくれるような音楽だった。
 ボレイコはサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)生れ、ショスタコーヴィチと同郷である。父親はポーランド人、母親はロシア人だという。2023/24までワルシャワフィルの音楽監督を務め、昨年、手兵と来日している。以前は東響やN響を指揮したこともあるようだが、日本のオケを振るのは珍しい。ボレイコのショスタコーヴィチは他も聴いてみたい。

2025/5/17 ウルバンスキ×都響 ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」2025年05月17日 19:57



東京都交響楽団 都響スペシャル

日時:2025年5月17日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
共演:ピアノ/アンナ・ツィブレヴァ
演目:ペンデレツキ/広島の犠牲者に捧げる哀歌
   ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番ヘ長調
   ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調


 東響の首席客演指揮者だったウルバンスキが都響を振る。東響とは首席客演指揮者を退任したあとも毎年のように共演しているウルバンスキだが今シーズンはパスをした。シェフを務めるワルシャワフィルと来日するためかと思ったら、都響を指揮するという驚きのニュース、そのサプライズに抗しがたく早々にチケットを手配した。
 プログラムは“ショスタコーヴィチ没後50年記念”と銘打って、ピアノ協奏曲と交響曲、それにお国のペンデレツキを組み合わせた。

 「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は10年ほどまえ東響定期で聴いた。たしか首席客演指揮者の就任披露公演だった。ウルバンスキにとっては名刺代わりの作品なのだろう。微分音が密集するトーン・クラスター技法を用いた弦楽合奏曲で、原題は「8分37秒」と味気ない。標題は後付けながらこの標題によって有名になったともいえる。
 旋律らしきものはなく悲劇的な音響が最初から最後まで続くが、ウルバンスキのそれは威圧的ではなく、どこか穏やかで優しい、これは意外。もっとも前回どうであったか思い出せないから比較できないのが残念だけど。
 そうそう作者のペンデレツキのこと。都響定期に登場したことがある。庄司紗矢香をソリストとした自作のヴァイオリン・コンチェルトとベートーヴェンの交響曲を振った。自作品は剣呑ながら姿形は好々爺としか見えなかった。

 ショスタコーヴィチはヴァイオリン、チェロ、ピアノの協奏曲を各2曲ずつ書いている。ヴァイオリンとチェロ協奏曲はいずれも重く気難しい作品だけど、ピアノ協奏曲は2曲とも軽快で楽しい。「第1番」はトランペットとの二重協奏曲のようだし、「第2番」はトランペットを欠いた小編成のオケと協演する。
 ツィブレヴァは色彩感で聴かせるタイプではないが、音は硬質かつ明瞭で濁りかなく良く鳴る。軽やかなこの協奏曲には似合っている。緩-急-緩の古典的な3楽章形式、第1楽章は若々しく快活。のんびりした主題が登場するが、すぐ駆け足となり、いかにもショスタコらしく忙しくなって行く。展開部以降は音楽が華やかさを増す。次の緩徐楽章はメロディーも響きもしゃれた夜想曲風。素直な叙情性に溢れ感動的。こんなに素のままなショスタコは珍しい。続けて演奏される第3楽章は快活な民族舞曲のよう。ハノンのピアノ練習曲も引用されているという。目まぐるしく同じ音型が転げ回る様子はユーモラスでスリリングだ。フィナーレに向けて興奮は頂点に達した。
 演奏が終わって、P席からブラヴォーがかかったのだろう、ツィブレヴァは後ろを振り返って丁寧に頭を下げていた。好感度満点である。

 後半の「交響曲第5番」は最弱音で開始されたラルゴに尽きる。ウルバンスキの設計した音量、音価、内声部のバランスなどが独特で、しばらくのあいだ弦5部それぞれの行方を見通すことができず不安になったほど。全く覚えのない曲に対面しているようだった。中間部のオーボエの寒々としたソロ、続くクラリネット、フルート、ファゴットの冷たい音色、シロフォンの強打とハープの爪弾きにも震撼する。悲しみと怒りの極地が現出した。そのあとのフィナーレの無機質な高揚こそが白々しく思える。「第5番」は体制に迎合し屈服したようにみせながら、自らの生命を救った交響曲である。彼の生死を分けた作品であることを変態ウルバンスキ×都響の演奏によって改めて知ることができた。

2025/4/26 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第12番」2025年04月26日 22:04



神奈川フィルハーモニー管弦楽団
 みなとみらいシリーズ定期演奏会 第404回

日時:2025年4月26日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:チェロ/上森 祥平
演目:グラジナ・バツェヴィチ/弦楽オーケストラ
              のための協奏曲
   ショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番変ホ長調
   ショスタコーヴィチ/交響曲第12番ニ短調
            「1917年」

 
 神奈川フィルのシーズン開幕、監督が登壇してショスタコーヴィチをメインとしたプログラムを組んだ。

 最初はポーランドの女性作曲家・ヴァイオリニストのグラジナ・バツェヴィチによる「弦楽オーケストラのための協奏曲」。戦後すぐに書かれたバロック様式の急―緩―急の作品だが、旋律は大胆に動き回り、1・3楽章などリズムは激しい。途中、分奏や四重奏、ソロが挟み込まれ弦5部の響きは独特のものがある。攻撃的で野性的なところがあってちょっとバルトークを連想させる。
 神奈川フィルは数年前にシーヨン・ソンの指揮で20世紀前半に活動した女性作曲家フローレンス・プライスの「アメリカにおけるエチオピアの影」を日本初演している。今、女性指揮者の台頭とともに、歴史のなかに埋もれがちな女性作曲家にもスポットが当たりつつあるのかも知れない。
 コンマスは石田泰尚、アシストはゲストの佐久間聡一。もう一人のコンマスである大江馨が3月末で退団している。石田さんもソロ活動などで多忙だからコンマス1人体制は厳しい。佐久間さんは適任と思うが、鋭意選考中なのだろう。チェロの首席は上森祥平が次のショスタコーヴィチのソロを担当するので、代わって懐かしい顔の人が座っていた。以前神奈川フィルで、その前は都響で首席を務めていた山本裕康がゲストだった。

 さて、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」。名手ムスティスラフ・ロストロポーヴィチに捧げられた実に魅力的なコンチェルト。技術的には相当な困難が伴うようで頻繁に演奏される作品ではないけれど。オーケストラの編成は金管楽器がホルン1本のみと変わっている。そして、ホルンはチェロと同じように独奏楽器のごとく活躍する。坂東さんだろう、と思っていたら、読響の松坂さんが客演で登場した。
 第1楽章「アレグレット」はショスタコーヴィチのイニシャル(DSCH)に基づくゴツゴツした主題が楽章を通じて自己主張していく。チェロとホルンとのやり取りが聴きどころ。木管楽器は力強いパッセージを吹き鳴らし、全体としては軽快ながらも緊張を孕む。コーダの手前、一瞬静寂に包まれたあと爆発的な勢いでもって終了した。第2楽章「モデラート」はエレジー。オケの序奏に続きホルンに導かれてチェロの嘆きが始まる。抒情的で祈りをこめた主題が印象的。終結部はチェロのフラジオレットにチェレスタが加わり夢幻の世界へいざなう。第3楽章「カデンツァ」ではオーケストラは沈黙、チェロはその表現力を縦横無尽に駆使する。「カデンツァ」はそのまま第4楽章「アレグロ」へと雪崩れ込む。「交響曲第10番」と同様、音名象徴がそこら中に出現し、途中でワルツが唐突に流れる。リズムはティンパニや木管楽器によって強調され、まるでショスタコーヴィチが嬉々として飛び跳ねている様を見るようだった。
 上森祥平のチェロはことさら情熱をたぎらせるのではなく、どちらかというと冷静沈着、理知的で大人しい。ちょっと小ぶりと感じたのは致し方ない。相方のホルンが豪快な松坂さんだから余計そんな思いが増幅したのかも。沼尻監督の指揮はいつもながらの見事なサポート。それにしても、これだけ技術的に高度なソロをオケの首席が担い、管弦楽メンバーの独奏も頻出する。近年の日本のオケの実力をまたひとつ証明した演奏だった。

 最後は「交響曲第12番」、世間ではショスタコーヴィチが書いた交響曲における最大の失敗作という、本当か?
 この作品はショスタコーヴィチの共産党入党と少なからず関係しているらしい。共産党はイメージ向上策として知識人の抱え込みを画策し、ショスタコーヴィチもこれに巻き込まれ強制されて共産党へ入党した。そのときの忠誠の証として革命とレーニンに捧げるこの交響曲が作曲された。1960年ころの話である。前作「第11番」が「血の日曜日事件(1905年)」、本作はその続編で「十月革命(1917年)」を扱った標題音楽である。4楽章構成で第1楽章「革命のペトログラード」、第2楽章「ラズリーフ湖」、第3楽章「巡洋艦アヴローラ」、第4楽章「人類の夜明け」である。「第11番」と同じく切れ目なく演奏される。
 「第12番」は前作とは使用楽器が大きく違う。「第11番」で活躍するシロフォンやチューブラーベル、チェレスタなどの特殊楽器が全く用いられてない。古典的で地味な楽器編成であり、前衛的な管弦楽法は目立つことなく、皮肉や諧謔、反骨や批判精神が後退しているように思える。西側諸国では時局に迎合し体制に擦り寄った作品だという批判が、そして、自国でも評判は芳しくない。標題付きでありながら描写的とはいえず、音楽から標題性を捉えることが難しい。革命とレーニンの記念碑的な感銘を響きからは受取ることができない。
 終楽章など「人類の夜明け」という白々しくも仰々しいタイトルで、繰り返される3音音形や4音音形のしつこさは異常なほど。クライマックスも執拗に積み重ねられる。見かけは立派な皮を被っているけど中身は伽藍堂、まるで音でつくったパズルのようだ。これではロシア革命を称えレーニンを賞賛する交響曲とはとてもいえない。多分、ここでのショスタコーヴィチは、音自らが生成発展して行くことのみに関心があった。描写だ、標題だ、革命歌だ、などは言い訳に過ぎないのだと思う。それが独裁政権には気に入らない。共産党はこの曲の裏に隠された胡散臭さを嗅ぎ取り、一方、西側は表に現れた滑稽なほどの体制迎合ぶりを怪しからんと決めつけた。ショスタコーヴィチの韜晦、二枚舌はここでも健在なのだ。
 沼尻×神奈川フィルを聴いていると、ショスタコ流アレグロの集大成というべき猛烈な疾走感があり、音名象徴らしい音形の連打に興奮が高まる。それらの音響のなかで外見と内面とがだんだんと乖離して行く。音楽自体の崩壊の過程を聴いているような不思議な感覚を味わったわけだ。聴き手を翻弄し続けるこの「第12番」もショスタコーヴィチの傑作ひとつであると確認できた演奏だった。

2025/4/12 高関健×シティフィル ショスタコーヴィチの最初と最後の交響曲2025年04月12日 21:56



東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
   第81回ティアラこうとう定期演奏会

日時:2025年4月12日(土) 15:00開演
会場:ティアラこうとう 大ホール
指揮:高関 健
演目:ショスタコーヴィチ/交響曲第1番ヘ短調 作品10
   ショスタコーヴィチ/交響曲第15番イ長調 作品141


 ショスタコーヴィチの学生時代に書いた最初の交響曲と、それからほぼ半世紀後の60歳半ばに作曲した最後の交響曲とを並べたコンサート。ありそうでなさそうな、なかなかに珍しいプログラム。
 両曲とも聴く機会はそれほど多くなく、「第1番」は直近では10年以上前のスクロヴァチェフスキ×読響だった思う。その後、大野和士×都響のチケットを取っていたが、コロナ禍の緊急事態宣言のせいで公演中止となってしまった。「第15番」はやはり10年ほど前にノット×東響と井上道義×新日フィルを続けて聴いた。井上と新日フィルの公演は、日比谷公会堂がリニューアルする前のファイナルイベントとして企画されたもので「第9番」と一緒に演奏された。

 「第1番」は、レニングラード音楽院の卒業制作で19歳のときの作品、若き天才のお出ましだ。第1楽章はいたずらっ子が駆けずり回っているようで、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を彷彿とさせる。第2楽章はピアノが大活躍するスケルツォ、ピアノ協奏曲といってもいいくらい。ここはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」がお手本だろう。第3楽章は緩徐楽章、弦楽器の半音階進行が目立ち、悲しげで不安に満ちている。「トリスタンとイゾルデ」を思わせる旋律も聴こえる。スネアドラムがクレッシェンドし切れ目なく最終楽章へ。序奏からショスタコ得意のアレグロに突入する。クライマックスにおけるテンポの変化は目まぐるしく、ジェットコースターに乗っているかのよう。ティンパニの扱い方も斬新だ。古典的な4楽章形式だが、モダニストとしてのショスタコーヴィチの面目躍如。毒気は少ないものの、おふざけ、誇張、皮肉、揶揄などなど、後年のショスタコーヴィチ作品の萌芽がすでにある。
 高関はやや遅めの歩み、緩急もそれほど極端ではない。一音とも揺るがせにしない几帳面な音づくりで、才気煥発な作品というよりは、完成された一人前の交響曲という感じ。ちょっと分別がありすぎて若書きの奔放さや軽みが不足していたかも知れない。シティフィルは新しいメンバーもちらほら。個々の技量はもちろん、オケとしての充実度には目を見張るものがある。今日のコンマスは荒井英治だった。

 ショスタコーヴィチの交響曲は、この後、単一楽章の宣伝音楽的なオラトリオ風交響曲が2曲続き、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」をきっかけとした“荒唐無稽”の批判のなか、挑戦するかのようにグロテスクで破天荒な「第4番」をものにした(ただし当時は封印を余儀なくされ初演は雪解け後)、「第5番」から「第10番」までは内容はともかく形式的には独墺の器楽交響曲に倣う。「第11番」と「第12番」は革命の物語に従った標題交響曲であり、「第13番」と「第14番」は声楽と交響曲との融合である。そして、最後の「第15番」において伝統の器楽交響曲へ回帰する。

 「第15番」は1971年の作。古典的な4楽章構成の交響曲だが、コラージュや他作品からの引用、リズムクラスター、十二音主題など前衛的で実験的な試みがたっぷり詰まっている。楽器のソロを活かした“管弦楽のための協奏曲”としての面白さにも事欠かない。高関はここでも遅めのテンポで、錯綜した情報を解きほぐすがごとく丁寧に処理していく。「第1番」から数えて半世紀の毒をくぐり抜けてきた「第15番」である。高関の生真面目さが目新しい側面のみに惑わされず重みのある交響曲として結実した。ショスタコーヴィチの屈折した心情が一枚一枚はがれていくような様をじっくりと楽しませてもらった。
 第1楽章はまさに合奏協奏曲、多久和怜子のフルートをはじめ各楽器のソロとオケとが縦横無尽に展開し、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの引用が陽気な気分を盛り上げる。しかし、陽気なのはここまで。第2楽章に入ると短調の金管コラールからチェロのモノローグ、トロンボーンの長大なソロなど、葬送行進曲風の沈鬱なアダージョになる。シティフィルの金管陣は女性主体ながらトランペットの松木亜希やホルンの谷あかね、トロンボーンはゲストかも知れないが、それにしても強力な陣容である。ファゴットの吹奏をきっかけとしてアタッカで第3楽章へ。山口真由が吹くクラリネットの主題は十二音列のようだ。トリオの後半には「第4番」2楽章のコーダと同様、打楽器アンサンブルが活躍し、ウッドブロックが不気味なリズムを刻む。終楽章はワーグナー「リング」のジークフリートの葬送行進曲の調べが印象的。中間部は長い長いパッサカリア。その後、オケの強奏を経て静謐なコーダへ。「第8番」の終結部のように弦楽器が優しく懐かしい旋律を奏でるが、金管楽器が何度か邪魔をし、再び7人の打楽器アンサンブルがチャカポコチャカポコと時を刻む。最後はチェレスタが鳴って全曲をしめくくる。ここは真に背筋が凍るほどの音楽だった。

 ショスタコーヴィチが「交響曲第1番」から「交響曲第15番」までを書き継いだ50年は、ひとつ間違えば音楽家が抹殺されることもありえた危うい時代だった。観念ではない実体としての恐怖が支配していた。彼は焼けた鉄板のうえを飛び跳ねるようにして歌い続けた。その奇妙な歌は自己陶酔などでは毛頭なく、狂気をはらみ、嘲笑い、韜晦し、本人さえ虚実の見分けがつかないものになっていたのかも知れない。ということは、そこには無限の解釈が生ずることになり、この先の人々はますますショスタコなる歌を巡って、あるいは苦悩し、あるいは歓喜しながら、歴史を反芻して行くことになるのだろう。

2025/3/29 沼尻竜典×音大FO 武満「系図」とショスタコーヴィチ「交響曲第4番」2025年03月29日 22:20



第14回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ

日時:2025年3月29日(土) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:沼尻 竜典
共演:語り/井上 悠里
   アコーディオン/大田 智美
演目:武満徹/系図―若い人たちのための音楽詩―
   ショスタコーヴィチ/交響曲第4番ハ短調


 年度末のこの時期は音大フェスティバル・オーケストラの演奏会、首都圏の8つの音大の選抜メンバーで構成されるオケである。各音大が競演する年末の「音楽大学オーケストラ・フェスティバル」の特別編で、今年度は沼尻竜典が振る。

 武満徹の「系図」は昨年、佐渡裕×新日フィルで聴いた。谷川俊太郎の詩集に基づく「むかしむかし」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」「とおく」の6曲。
 思春期を迎えた子供の視点による谷川の言葉は、時としてどきっとするほど冷徹なところがあるが、沼尻と学生たちがつくった武満はあたたかい。
 武満にしては分かりやすい旋律があって調性的な響きが好ましい。日本的な情緒を感じさせる。この作品はこの先も演奏を重ねていくような気がする。
 「とおく」におけるアコーディオンの響はいつ聴いても効果的で印象深い。語りはオーディションで選ばれた東京音楽大学付属高等学校の井上悠里。透明感のある最適の語り部だった。

 ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」は戦前に作曲されていながら、25年もの間封印され、初演は1961年まで待たねばならなかった。日本初演はさらに25年を経た1986年の芥川也寸志×新響だという。
 この「第4番」、たとえ音楽とはいえ、やりたい放題、これだけ好き勝手に作曲されては、当局としては決して許すことはできない。音楽の自由は音楽の中だけに留まらないから。
 「音楽でなく荒唐無稽」との批判のさなか、これこそ荒唐無稽な作品、虚仮にされたと思うであろう。相手はスターリンである。封印しなければ命さえ奪われていたかも知れない。剣呑な曲である。名誉回復となった「第5番」と比べてみればその異形は言うまでもない。
 音大FOは凄まじい集中力で全員が全力疾走。しかも沼尻の明晰な指揮のもと、なかには笑みを浮かべていた奏者もいたから、手ごたえも十分だったのだろう。
 沼尻は第1楽章の展開部のフガートを駆け抜け、「第5番」の主題が登場するスケルツォをシニカルに決め、終楽章のワルツやギャロップなど真面目と皮肉を織り交ぜ、ショスタコーヴィチの最もモダンで先鋭的で破天荒な交響曲を熱量高く聴かせてくれた。
 
 「第4番」を初めて実演で聴いたのはバルシャイ×名フィルだった。このライブは精緻にして壮絶を極め、終演後、座席から立ち上がれないほどの衝撃を受けていた。バルシャイ×ケルン放送響によるブリリアントのBOXを買ったのは実演の前だったか後だったか。
 名フィルのアーカイブをみると公演日は2004年12月15日だから、もう20年以上も前になる。ちなみにこのとき戸田弥生のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」が一緒にプログラムされていたとのこと、こちらは全く記憶にない。
 その後「第4番」は、ラザレフ、リットン、ゲルギエフ、ウルバンスキ、ノットと聴いて来たが、どういうわけか井上道義を聴き逃している。「第4番」をレパートリーとしている邦人指揮者は数えるほどだろう。沼尻竜典のショスタコーヴィチは神奈川フィルとの「第12番」が来月控えている。