2025/10/18 佐藤俊介×東響 バッハ「ブランデンブルク協奏曲」 ― 2025年10月18日 21:22
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第103回
日時:2025年10月18日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
出演:指揮&ヴァイオリン/佐藤 俊介
フルート/竹山 愛、濱崎 麻里子
オーボエ/荒木 良太、最上 峰行、浦脇 健太
ファゴット/福井 蔵
ホルン/上間 善之、加藤 智浩
チェンバロ/重岡 麻衣
演目:フックス/ロンド ハ長調
フレミング/完全なるドイツ猟師より
「ファンファーレ」
J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲
第1番 ヘ長調 BWV1046
第5番 ニ長調 BWV1050
第3番 ト長調 BWV1048
テレマン/2つのオーボエとヴァイオリン
のための協奏曲
J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲
第4番 ト長調 BWV1049
佐藤俊介と東響とのコラボは、コロナ禍前の初顔合わせを聴いた。モーツァルト・マチネだった。その後、お互いの相性が良いせいか何度か共演をしていたがパス。今回が二度目である。佐藤俊介は古楽器オケであるコンチェルト・ケルンのコンマス・指揮者であり、2023年までオランダ・バッハ協会の音楽監督も務めていた。そのバッハである。
「ブランデンブルク協奏曲」を中心としたこの演奏会、実は神奈川フィル定期の沼尻監督が指揮するブルックナーの「交響曲第8番」と重なってしまった。普通なら迷うことなくブルックナーを選ぶところだけど、今日のプログラムは振替がきかない。それに沼尻はブルックナーを振りはじめたばかりで、この先も聴く機会はあるはずと頭を巡らせ、こちらの演奏会を選ぶことにした。
最初はフックスの「ロンド」、ヴァイオリンの佐藤俊介、ファゴットの福井蔵が独奏者となって管弦楽と協奏した。次いでフレミングの「ファンファーレ」を上間善之、加藤智浩によるホルンが吹奏、そのまま「ブランデンブルク協奏曲」の「第1番」へと繋げた。
「第1番」の編成は、佐藤俊介以外では景山昌太郎をトップとするヴァイオリンが4+4、ヴィオラが3、チェロが2、コントラバスが1、管はオーボエが3、ファゴットが1、ホルンが2。全曲中で最大の規模。曲は急―緩―急の3楽章にメヌエットを加えた4楽章構成。華やかで気持ちよく始まる第1楽章から第2楽章に入ると陰影の深い曲調へと変わり、第3楽章ではホルンとヴァイオリンが全体を主導し華やかさが戻ってくる。ここで終わっても全然構わないのに、おまけのように弦楽器とオーボエがゆったりとメロディを歌いホルンが彩りを添えてメヌエットとなった。
続いて「第5番」、編成がガラッと変わった。ソロの佐藤とヴァイオリンの景山、ヴィオラの西村眞紀、チェロの伊藤文嗣、コントラバスのコーディ・ローズブーム、フルートの竹山愛、チェンバロの重岡麻衣、計7名の小編成、室内楽である。これだけ小さな規模の「第5番」を聴くのは初めて。「ブランデンブルク協奏曲」といえばこの出だしがテーマ音楽といっていいほど有名。フルート、ヴァイオリン、チェンバロ独奏による明るくおおらかな第1楽章、後半のチェンバロの長大なカデンツァは独創的だ。第2楽章はソロ楽器による影のある旋律が歌われる。第3楽章はフルートの楽想が次々とほかの楽器に受け継がれ、絡み合いながら華やかなフィナーレとなった。竹山のフルートは普段の煌びやかな音ではなくて、ちょっとくすんだ、しっとりとした音、楽器本体もシルバーやゴールドとは違い濃茶色、木質系かも知れない。
休憩後は「第3番」から。また編成が大きく変わった。ヴァイオリンは佐藤を含めて3、ヴィオラとチェロも各3、それにコントラバスとチェンバロ。管楽器はなく、ほぼ弦楽合奏曲。演奏時間も全曲中で一番短い。第1楽章は小気味よいテンポの明るい曲想、ただし一瞬不気味な気分があらわれドキッとする。第2楽章は穏やかに静かにアッという間に終わる。第3楽章はスピードを増し再び明るい曲調で駆け抜けた。
「2つのオーボエとヴァイオリンのための協奏曲」は、生涯に4000曲、失われたものを含めれば6000曲を書いたといわれるテレマンの作品。エンターテインメント精神旺盛なバロック時代のスーパースターである。オーボエは荒木良太と最上峰行。アレグロ―アンダンテ―メヌエットの3楽章構成。滅茶苦茶に楽しい曲。アレグロは旋律もリズムも軽妙洒脱であってアグレッシブ、自然と身体が揺れ動く。演奏会の案内チラシには「バロック・THEロック」の副題がついていたが、まさにその通り。アレグロは繰返し演奏をしても構わないとのことだが、今日はダ・カーポなし、残念。テレマンといえば数千曲のうちの「ターフェルムジーク」の一部くらいしか知らないけど、この協奏曲は収穫だった。
最後が再び「ブランデンブルク協奏曲」に戻り「第4番」。竹山愛、濱崎麻里子のフルートとヴァイオリンソロが明るく競い合う。濱崎のフルートも竹山と同じ濃茶色。第1楽章はお伽噺のような世界。2本のフルートによる鳥が鳴きかわすような可愛らしい音色とヴァイオリンの超絶技巧との絡みが聴きもの。第2楽章は一転して寂しげで郷愁を誘うような歌、同じフレーズが繰り返され木霊のよう。第3楽章はバッハ得意のフーガ、精巧で複雑な音の寄木細工。途中、佐藤俊介のヴァイオリンはスリリングで、その後、楽器群が数回の和音を力強く鳴り響かせ曲が閉じられた。
プログラムノートによると、東響定期で「ブランデンブルク協奏曲」を取り上げるのはほぼ半世紀ぶりらしい。たしかにフルオーケストラの団体においてはバロック音楽の演奏機会は稀だろう。そのせいもあってか楽団の奏者たちは嬉々とした表情、聴き手も奏者につられて楽しんだ、といった風情の演奏会だった。
2025/10/12 マルッキ×東響 「田園」と「春の祭典」 ― 2025年10月12日 19:11
東京交響楽団 名曲全集 第211回
日時:2025年10月12日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:スザンナ・マルッキ
演目:ベートーヴェン/交響曲第6番 へ長調op.68
「田園」
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
スザンナ・マルッキはフィンランド出身。著名な指揮者を輩出しているシベリウス音楽院でパヌラやセーゲルスタムに学んだ。サカリ・オラモとほぼ同世代でもう50代半ば。
もとはチェリストで30歳を過ぎてから指揮活動を本格化し、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を10年近く務めた。現代音楽の演奏集団であるアンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)の音楽監督も経験している。
今日のプログラムはEICの元監督であるから「春の祭典」は大注目だけど、その前段に20世紀音楽が並ばなくてよかった。「田園」+「ハルサイ」の名曲プログラムとなって一安心である。東響はよくEICの監督たちを招聘する。
マルッキは金髪をひっつめ、黒のパンツに動きやすそうな上着でもって登場した。身体は引き締まっていて、50代とは思えないほど若々しく見える。
「田園」は楽章ごと、あるいは楽章内も緩急、強弱を積極的に対比させる。楽章でいえば第2、5楽章を遅くゆったりと歌わせ、第3、4楽章を急速に強く激しく動かす。同じ楽章の中においてもテンポや音量にはっきりした変化をつけ、ひとつひとつの音を蔑ろにしない。だから音型や響きに新しい発見があって面白いが、いささか全体の音楽の流れが阻害されたように思えた。スダーンや沼尻のように物語がスムーズに見えてこない。音の中身は詰まっているのだけれど、進行が多少ギクシャクして演奏時間が長く感じた。
「春の祭典」も音づくりとしては「田園」とほとんど同じ。ただ「春の祭典」は「田園」のような標題性や物語性はなく、それぞれの部分の音響やリズムで勝負できる曲だから、結構楽しませてもらった。各パートのバランスは計算されつつ野性味もあった。野太くたっぷりとした音で迫力も十分。特に第二部の終盤「生贄の踊り」は狂気といえる変拍子のオンパレードで混沌の極みだが、マルッキの指揮に曖昧なところは全くない。非常に明快で分かりやすく混乱の欠片もない。終わってみると一種の爽快感さえ残した。この指揮姿には惚れる人がいるかも知れない。
コンマスは9月に第一コンサートマスターとして入団した景山昌太郎、隣に新人コンマスで現在は研究員の吉江美桜が座った。オケの弦楽器はしなやか、低音が豊かに膨らみ、管楽器の音色は素晴らしく、打楽器の切れ味は鋭い。今日も美しい東響の音だった。
東響の来期プログラム ― 2025年10月07日 20:21
2026年に東京交響楽団は創立80周年を迎え、新たに第4代音楽監督としてロレンツォ・ヴィオッティが就任する。その記念すべき2026/27シーズンのプログラムが発表された。
https://tokyosymphony.jp/news/58423/
ヴィオッティは、7プログラム・11公演を指揮する。2026年5月の音楽監督披露記念公演では、ベートーヴェンとマーラーの、ともに「交響曲第1番」を演奏する。9月には楽団創立80周年記念公演として、「ヨハネの黙示録」を題材としたオラトリオであるフランツ・シュミットの「七つの封印の書」を上演する。
海外の指揮者としてはパブロ・エラス=カサド、オスモ・ヴァンスカ、ピエール・ブリューズなどが客演する。邦人指揮者としては東京定期に沖澤のどか、下野竜也が、川崎定期に出口大地、小林資典などが出演する。名曲全集には熊倉優、大井駿、喜古恵理香といった若手指揮者が登壇する。楽しみにしたい。
いつものように川崎定期の会員を継続し、名曲全集の中から選択する予定だが、来期は東京定期のみの魅力的な公演があり、東京定期からも幾つか選ぶ必要がありそうだ。幸いにして例年に比べ東響と神奈川フィルとの日程の重複が少ないため、両楽団との調整では余り悩まなくて済みそうだ。
追記:バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年10月02日 15:02
2025年9月28日の東響川崎定期演奏会から数日を経過した。少し落ち着いたのでノット指揮のバッハ「マタイ受難曲」について追記しておきたい。
2群に分けた混声合唱100人ほどが舞台の後方に並んだ。ソプラノ・リピエーノとしての児童合唱は20人ほど、P席上段のパイプオルガンの横に位置した。ソリストたちが舞台最前列に待機する。管弦楽はこれも2群が左右に分かれて座っている。中央には2台のオルガン(大木麻理、栗田麻子)が置かれ、さらにはホールオルガン(安井歩)のリモートコンソールが舞台の下手に用意されていた。指揮台の前はチェロ(伊藤文嗣)、隣は第二部で登場するヴィオラ・ダ・ガンバ(福澤宏)の席となっていた。
明らかにバッハの時代にほど遠い大編成である。当時の演奏の原型を探求し、合唱と独唱の別なく“一つのパートを一人が歌う”スタイルを採用したクイケン&ラ・プティット・バンドは言うまでもなく、聖トーマス教会合唱団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管や鈴木雅明とBCJなどの演奏スタイルとも比べるまでない。同じモダン・オーケストラでもLGOのコンマスだったボッセが振った新日フィルの編成は凝縮され、演奏は禁欲的で端正だった。ノット×東響が目指すところとは異なっている。
ノットは現代の機能的な管弦楽を目一杯使い、優秀な声楽陣を最大限活用し、現時点で考えられるリソースを躊躇なく投入してバロック音楽を奏でた。それもバロック音楽の最高峰であるバッハの「マタイ受難曲」を演奏してみせた。これは虚仮威しやエンターテインメントを狙ったものではさらさらない。懐古するバッハではなく、今の時代の“人と楽器”によってバッハがどう聴こえるのか、「マタイ受難曲」が何を訴えてくるか、それを問うたものだった。
冒頭の「来たれ、娘たちよ」のホールオルガンの重低音に身震いした。ソプラノ・リピエーノの声が天上から降り注いでくるようだった。東響コーラスはいつものように暗譜。ノットは指揮棒を持たずゆったりとした身振りで悠然と歩みだす。弦はノンヴィブラートでありながらまろやか、レガートが多用され休符の前の音は引き伸ばされる。滑らかな音がホールを満たしていく。
レチタティーヴォとコラールが続く。エヴァンゲリストのヴェルナー・ギューラは力みのない歌唱だが、高音域がちょっと苦しい。もう少し力強さがあっても良かった。イエス役のミヒャエル・ナジは英雄的で崇高な歌唱が好ましい。特筆すべきはイエスの光背を表す弦楽合奏の美しさ、東響の弦の響きに何度も震撼した。コラールの迫真力は東響コーラスの力量と三澤洋史の指導があってのことだろう。
最初のアリアは、アンナ・ルチア・リヒターが歌う「悔いの悲しみは」。香油を注いだベタニアの女にまつわる自由詩である。リヒターはソプラノからメゾに転換したという。豊かな情感のある声で心を揺さぶる。伴奏をつけた竹山愛と濱崎麻里子のフルート二重奏がとても美しい。以前、竹山は相方の濱崎麻里子について「特別な存在です。ほぼ同い年で、中学生の頃からコンクールで顔を合わせ、東京藝術大学で共に学び、神戸国際フルートコンクールでも一緒に入賞しました。ここで再び巡り合って音楽を共に創れることを幸せに感じています」とインタビューに応えていた。
ユダの裏切りではカタリナ・コンラディの歌う「血を流せ、わが心よ」。透明感のある清楚な声とともに強靭さを持ち合わせている。この10月にウィーン国立歌劇場の来日公演で「フィガロの結婚」「ばらの騎士」に出演する。続く最後の晩餐における「われは汝に心を捧げん」では、荒絵理子と最上峰行のオーボエがコンラディ寄り添う。最上は公演後X(Twitter)に「新しい世界を見せてもらいました。同期入団の荒さんとはこれまで何度も本番後に握手してきたけど、昨日今日の握手の重みはずっと忘れないと思います。十数年一緒に吹かせてもらった証の重み。ありがとう」と投稿した。ノットはカーテンコールのとき、真っ先にフルートの2人を称え、次いでオーボエの両者を賞賛した。たしかにフルートもオーボエも最強のコンビである。
リヒターとコンラディは「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」の二重唱を歌い、第一部が終わった。
20分間の休憩中、美しく濃密な音楽のなかで展開する人間たちの愚かさに、激しい衝撃を受けていた。
第二部が始まり劇的なアリアが連続する。ペテロが否認したあとの「憐れみください、我が神よ」から、ユダの自死における「我に返せ、わがイエスを」、ピラトの判決に対する「愛によりわが救い主は死に給わんとす」、ピラトがバラバを釈放しイエスを鞭打つ直後の「わが頬の涙」である。
これらの場面でのリヒターとコンラディの歌唱、ノットの設計する歌と伴奏のバランス、さりげない抑揚をつけた管弦楽のコントロール、それに応える東響の演奏は、古典派はおろかロマン派を越えて、まるで後期ロマン派の音楽のようにさえ聴こえた。独墺音楽の源流といっていいバッハの音楽に、遥か後世の独墺音楽の崩壊までの道程が重なって見えるような気がした。
二期会の3人の歌手も安心して聴くことが出来た。櫻田亮はエヴァンゲリストを務めることもしばしばで安定した明晰な声が好ましい。加藤宏隆は深々とした歌唱と多様な表現力で楽しませてくれた。萩原潤は艶のある温かい歌声が心に沁みた。とりわけイエスが息絶え合唱が「げにこの人は,神の子なりき」との詠嘆のあと、降架と埋葬における「わが心よ、おのれを浄めよ」でイエスの死による救済を穏やかに安らかに歌った。この歌唱が終結の合唱「われらは涙流してひざまずき」への残照となり、平安と魂の休息をいやがうえにも高めることとなった。感動的な終幕であった。
管弦楽で特記しておかなければならないのは、チェロの伊藤文嗣とオルガンの大木麻理、2人のコンマスである小林壱成と景山昌太郎である。伊藤と大木は全編にわたって通奏低音を揺るぎなく維持し、歌手陣の歌唱をしっかりと支えた。管弦楽1群の小林壱成は「憐れみください、我が神よ」ですすり泣くような哀願するようなヴァイオリンを響かせ涙を誘った。管弦楽2群の景山昌太郎は「我に返せ、わがイエスを」でヴァイオリンの華麗なる走句を披露した。そして「わが頬の涙」では弦楽合奏を見事にリードした。ノットは終演後この4人に賛辞をおくり、スタンディングオベーションなか2人のコンマスを引き連れての一般参賀となった。
それにしても「マタイ受難曲」の演奏は、今やピリオド・スタイルが多くを占め、モダン・オーケストラでの公演は稀である。ノットはそのことにあえて挑戦した。バッハの音楽は演奏スタイルなどを超越しているのだと。ピリオド、モダン、折衷など様式は関係ない。時空を越えたバッハの音楽は「バッハ」であるということだけが大切なのだと。
人はどの時代どの場所にあっても罪を犯す。裏切りや責任逃れ、事なかれ主義や付和雷同、他者を犠牲にし残酷なことさえ厭わない。イエスの受難の物語は遠い昔の遠い場所での出来事ではない。この時代この場所で日々起こっていることだと「バッハ」は教えてくれる。そうノットは言いたかったのではないか。
ノットのラストシーズンも大詰めである。ノット×東響の稀有のコンビを聴くことができるのは、マーラー「交響曲第9番」とベートーヴェン「交響曲第9番」を残すのみとなった。
2025/9/28 ノット×東響 バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年09月28日 20:32
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第102回
日時:2025年9月28日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:エヴァンゲリスト(テノール)/
ヴェルナー・ギューラ
イエス(バリトン)/ミヒャエル・ナジ
ソプラノ/カタリナ・コンラディ
メゾソプラノ/アンナ・ルチア・リヒター
テノール/櫻田 亮
バリトン/萩原 潤
バス/加藤 宏隆
合唱/東響コーラス
合唱指揮/三澤 洋史
児童合唱/東京少年少女合唱隊
児童合唱指揮/長谷川 久恵
演目:J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244
R.シュトラウスの「サロメ」「ばらの騎士」、ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」、ブリテンの「戦争レクイエム」などの歌劇や声楽曲を積み重ねてきたノットと東響のコンビが、12年目の旅の最後にあたって「マタイ受難曲」を取りあげた。
ノットは「少年合唱団の一員として『マタイ受難曲』を歌ったことがあるが、指揮をするのは初めて」と言う。そして、東響コーラスについて「素晴らしい合唱団…『マタイ受難曲』や『戦争レクイエム』は、彼らがいるからこそ演奏できる」と語った。
ノットが初めて指揮するという「マタイ受難曲」は、徹頭徹尾美しい。近年主流の古楽器によるこじんまりとした「マタイ受難曲」ではなく、モダンオケと共にしっかりとした歌手や合唱団を揃えて、大曲としての「マタイ受難曲」を披露してくれた。
「マタイ」はレチタティーヴォとアリアとコラールの重層構造だけど、ノットの指揮はそれらの境界線さえ明らかでないほど滑らかに渾然一体となった演奏だった。2群に分けられた弦はほぼノンヴィブラートながら優しく柔らかく、木管はいつものように繊細。
その美しさを背景に人間の弱さ、罪深さがくっきりと浮かび上がる。イエスの受難という別の世界の話ではなく、我々自身の物語として描き出された音楽に打ちのめされた。
今は放心状態で、とてもじゃないが細部を振り返ることなどできない。落ち着いたころを見計らって、機会があればもう一度記憶を手繰ってみようと思う。