2022/5/22 ノット×東響 ベルシャザールの饗宴2022年05月22日 20:18



東京交響楽団 川崎定期演奏会 第86回

日時:2022年5月22日(日) 14:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ピアノ/ペーター・ヤブロンスキ
   トランペット/澤田 真人
   バリトン/ジェームズ・アトキンソン
   合唱/東響コーラス
演目:R.シュトラウス/ドン・ファン op.20
   ショスタコーヴィチ/
     ピアノ協奏曲第1番ハ短調 op.35
   ウォルトン/ベルシャザールの饗宴


 「ドン・ファン」はR.シュトラウスの出世作。20歳そこそこの作品というのだから驚く。ドン・ファン=ドン・ジョヴァンニの音楽といえば、まずはモーツァルト31歳のときの歌劇が一等だが、それに続く有名曲だろう。
 いきなり弦楽器による激しい上行音階で幕を開け、あっという間に最高音に達する。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「英雄の生涯」と同様、R.シュトラウス得意の曲冒頭で音空間を支配してしまう。ノットの速度は尋常ではない、弦が悲鳴をあげる。上品な東響の弦も最近は強靭になった。
 場面が変化し、ヴァイオリンソロによる甘美な旋律が出現、ドン・ファンが口説く。ここでのノットはぐっと速度を落とす。その後、音楽は何度も頂点に到達するものの、急転直下奈落の底へ、ということを繰り返す。東響の演奏の核である木管の調べが心に沁みる。
 終盤、音楽はどんどん加速して、突然悲痛な最期を暗示するかのように終わる。この終結部での響きは、R.シュトラウス晩年の「メタモルフォーゼン」や「4つの最後の歌」などでも聴くことができる。あんなに現世的、世俗的にみえるR.シュトラウスであっても、若者のときから死の響きを抱えて生きてきた。

 ショスタコーヴィチの「ピアノ協奏曲第1番」は、「ドン・ファン」がR.シュトラウスの出世作であったように、ショスタコの出世作といってもいい。音楽院の終了制作である「交響曲第1番」や、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」というとんでもない先行作品はあるけど、大成功という意味ではこの作品ではないか。今でも人気が高い。正式には「ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲 ハ短調」という。
 しかし、二重協奏曲というにはトランペットがピアノと対等に競わない。トランペットは、あっちを向いたりこっちを向いたり、合いの手を入れる。ピアノがトランペットを邪魔することもある。その掛け合いが面白い。自作の引用のほかパロディだらけらしいが、原曲を知らなくてよく分からない。4楽章あるいは3楽章で構成され連続して演奏される。ショスタコらしくアイロニーに満ち、シニカルでコミカルで楽しい。
 ペーター・ヤブロンスキのピアノは、ペダルを多用し諧謔、冷笑というよりどこか優しい。澤田さんのトランペットも柔らかく、お互いのやり取りが暖かい。それでも第2楽章はしみじみと、ショスタコの不気味さに背筋がぞくっとした。二人のソリストは演奏を楽しんでいるよう。それ以上にノットは興に乗る。見ていてニンマリ。
 ヤブロンスキのアンコールは、ショパンのマズルカ(遺作)、ここでも死の影が忍び寄る。

 今年、ウォルトンは生誕120年のアニヴァーサリーを迎える。同国人のレイフ・ヴォーン・ウィリアムズも今年生誕150年。
 ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」は、オルガン、ピアノ、大編成の打楽器、二組のバンダ、混声合唱、バリトン独唱という大がかりな作品。『ダニエル書』に基づくユダヤ人がバビロン捕囚から自由を回復する物語。バビロニア王ベルシャザールのヤハウェ冒涜と異教徒崇拝の饗宴をきっかけに、バビロニアが崩壊するまでを描く。ウォルトン20歳後半の作品、またしても20代! 
 もちろん英国では人気曲だが、わが国でも結構演奏される。これは尾高忠明の功績、何度か振っている。大昔、その尾高指揮で聴いているが、細部までは覚えていない。今回は公演中止となった2020年のリベンジ、アニヴァーサリーにふさわしい壮大な曲である。
 バリトンのジェームズ・アトキンソンは凄みのある語りというか歌というか。100名を超えた東響コーラスはいつものように暗譜。オケは16型、オルガンの左右にはバンダ。下手のバンダには疲れも見せず澤田さんが参加していた。
 20世紀の音楽らしく肥大したスペクタクル絵巻。和声、旋律の美しさというよりオケと声楽が混然一体となった響きの面白さを楽しむ曲だろう。ミューザは音の大洪水のなかでも各楽器が明瞭に分離し飽和しないから、より一層曲が引き立つ。ノットの強烈なドライブが爽快だった。


 「ドン・ファン」は7、8年前のミュンヘン・フィル来日公演が強く印象に残っている。メインプログラムはブルックナーの「交響曲第4番」で、これも素晴らしかったが、それ以上にR・シュトラウスが良かった。指揮はゲルギエフ。
 ゲルギエフはミュンヘンを追い出された。ネオナチ掃討を掲げてウクライナに侵攻したプーチンと親密だからということらしい。どうして音楽家が政治の犠牲になるのか、ドイツの対応は偽善も極まれりというべきだろう。
 R・シュトラウスは、一時ナチの協力者ということで活動を制限された。フルトヴェングラーも同じだ。二人は祖国に留まった。あの過酷な時代に翻弄されながら。ショスタコーヴィチはどうか。専制政治の擁護者、体制派だといって批判されたこともあった。音楽家たちは、強権と対峙するなかで、命の危険に晒されながらも、彼らなりに生き抜いてきたのではなかったか、後知恵で糾弾するのは容易い。


 ナチといえば、ロナルド・レーガンの下で経済政策の財務次官補を務めたアメリカの経済学者ポール・クレイグ・ロバーツがこんな警鐘を鳴らしている。

 https://www.paulcraigroberts.org/2022/05/11/watching-the-western-world-dissolve-into-nazism/

 ひょっとしたら、現代は「ベルシャザールの饗宴」の最中にいるのでは。
 西欧というバビロニアが、崩壊しつつあるのかも知れない。少なくともオーウェル的世界が、刻一刻と目の前に迫ってきている。


 以下は、上記ブログの機械翻訳である。


西側世界がナチズムに溶解するのを見ながら 

トランプ大統領の言論の自由は、誰がツイッターを所有しているかに依存する

ポール・クレイグ・ロバーツ

 例外的で不可欠な米国において、元米国大統領が憲法で保障された言論の自由を、民間の通信会社によって否定されるとはどういうことだろうか。

 たかが私企業が、どうして米国憲法と権利章典を取り消すことができるのだろうか?

 憲法で保証された最低のアメリカ人の権利が、元アメリカ大統領にとって、誰がツイッターを所有しているかに左右されるなんてことがあるのだろうか?Facebookは? Googleは? そして、ニューヨークタイムズは?

 アメリカ人、特に保守派は、元アメリカ大統領が私企業のCEOによって憲法上の権利を取り消されたり、認められたりすることがあるのに、どうして自由な国に住んでいると思うことができるのだろう?

 これは、「民間企業」が政府を支配しているケースではないだろうか?

 事実、開かれた議論、真実へのアクセスを否定されて、どうして人々が自由でいられるのだろうか?

 国土安全保障省のトップは、ナチス時代の機関であり、現在アメリカの支配的な役割を担っているが、公式の物語に挑戦するすべての人を締め出す力を持つアメリカ真実省を設立した。大統領府が、ナチス時代のゲシュタポのような、真実を抹殺する権限を持つ機関をあえてアメリカに設立することが、どうして可能なのだろうか? そして、それでも国民の45%から支持されるのだろうか? 国民の45%が想像を絶するほど完全に愚かな国が、どうして生き残ることができるのだろうか?

 「バイデン民主党」はどうしたのだろうか? 彼らは、自由、解放、国の創設者がそのために戦った権利が危機に瀕していることを理解できないのだろうか?

 真実より価値のあるものがあるのだろうか?

 少数派の権利、人種の権利、トランスジェンダーの権利、レズビアンの権利、同性愛者の権利、そして明日発見されるであろうどんな新しい権利も、なぜ真実よりも重要で価値があるのだろうか?

 アメリカ国民はどこにいるのか。下院と上院で選ばれた彼らの代表者はどこにいるのだろう? 民主主義の番人であるメディアはどこにいるのだろう。裁判所、法科大学院、法律家協会、憲法で保護された権利である言論の自由に基づく自由を守るために立っている抗議者たちはどこにいるのか? なぜ影響力のある団体は合衆国憲法によって与えられた権利を擁護しないのか? アメリカのどの大学も弁護士会も、真実がエリートに都合の良いフィクションにすり替えられることに抗議していない。

 なぜアメリカ人は、アメリカのナチス、「国土安全保障」のトップがアメリカにオーウェル的な国家を作る間、ただ座っているのだろうか? 自由な国と言われるアメリカで、バイデンが任命した国土安全保障省のトップが、彼のゲシュタポ機関が、アメリカ合衆国の真実を決定する権利を持っていると言うのを、我々は目撃したばかりだ。

 アメリカでは、真実に対する敬意は非常に弱く、ナチがまだアメリカの“国土安全保障 ”のトップである。アメリカのナチスは解雇されなかった。検閲を合衆国憲法より高く掲げたことでも、彼は叱責さえされなかった。

 西側諸国が“自由な国”であることは、大いなるジョークである。西側世界全体が徹底的にナチス化しているのだから、ナチス化した西側諸国政府が、飛来する極超音速ICBMから自分たちの存在を脅かされながら、ウクライナのナチス政権を支持しても不思議はない。プーチンはロシアの自由主義者であり、したがって弱い。しかし、プーチンはロシアが西側のナチズムに屈するのを許すほど弱くはないのだ。間抜けなアメリカ人がトランスジェンダーの権利やナチス・ウクライナの境界線について心配している間に、終わりの時が近づいている。アメリカ人は、合衆国憲法で保証された自分たちの権利を完全に忘れ、それを守るために何もしていない。

 西洋の自由は、征服者によってではなく、西洋自身によって、歴史のゴミ箱に投げ込まれたのだ。

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