2022/1/29 藤岡幸夫×シティフィル+田部京子 シューベルトとシベリウス2022年01月30日 12:53



東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第67回ティアラこうとう定期演奏会

日時:2022年1月29日(土) 15:00 開演
会場:ティアラこうとう 大ホール
指揮:藤岡 幸夫
共演:ピアノ/田部 京子
演目:シューベルト/ピアノ協奏曲(吉松 隆編)
   シベリウス/交響曲第1番 ホ短調 作品39


 シューベルトの「ピアノ協奏曲」? シューベルトは、そもそも協奏曲を書いていたか?
 手っ取り早くWikipediaで検索してみると、1000曲以上ある作品のうち、協奏曲のジャンルに3曲の「ヴァイオリン協奏曲」があげられている。それも本格的な演奏会用というより友人たちと一緒に楽しむ、という目的でつくられたような作品に思える。
 ふむ、ほんの少し「ヴァイオリン協奏曲」らしきものを書いていた、ただし、「ピアノ協奏曲」は書いていないと。

 じつは、この「ピアノ協奏曲」は、吉松隆がシューベルトの「ピアノソナタ」を編曲したもの。編曲の経緯は、2017年に書かれた本人のブログにある。少し引用してみる。
 <20年近く前、―――「シューベルトの最後のピアノソナタ(変ロ長調、D.960)をピアノ協奏曲化してみよう(そして田部京子さんに弾いてもらおう)」と思い立って書き上げたものの、結局演奏も録音もされずお蔵入りになってしまった幻の作品である。―――「あまりに大好きな曲なので、オーケストラと一緒に鳴らしてみたい」…という純粋な遊び心から生まれたモノ。(当然ながら誰に頼まれたわけでもなく、一円にもならない道楽仕事である)。―――クラシック音楽界はこの手の遊びには非常に冷たいので、試みるためには毛の生えた心臓が必要だ。―――このスコアも見事に「お蔵入り」の栄誉を得たわけだが、頑張って書いたものの演奏もされずにお蔵入り…という仕事は佃煮にするほどあるので、さほどの感慨はない。>

 http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2017/05/post-b69d.html

 四半世紀も前の、そのお蔵入りの作品が演奏される。もちろん世界初演である。
 指揮は、「吉松作品に出会って、人生の半分をかけてもいいと思った。全部はもったいないけど」と公言する藤岡幸夫。そしてピアノは、吉松さんが「田部京子さんに弾いてもらおう」と思った、そのまさしく本人。これ以上ないというか、これしかありえない、という組み合わせ。

 「ピアノソナタ21番 変ロ長調 D.960」は、若いころ毎日のように聴いていた時期があった。魅せられて作品の世界にどんどん引きずり込まれていった。「冬の旅」と同様シューベルトの独り言である。穏やかに優しく激することはない。だからこそ、よけいその孤独、絶望、悲しみが心に沁み込んでくる シューベルトの音楽が頭から離れず、いつもメロディが鳴っているような状態になった。聴くたびに涙が出てとまらない、それでも聴くのを止めることができない。どのくらい続いたろう。
 モーツァルトの悲しみは通り過ぎて行く。小林秀雄が「モオツァルト」(『モオツァルト・無常という事』新潮文庫)の中で、アンリ・ゲオンからとってきて使った「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」である。いや、吉田秀和がいうように、小林秀雄の「走る悲しみ」という言葉によって「モーツァルトをきく耳を呪縛」されたわけではない。実際、モーツァルトの音楽は人の感情を悉くあらわすけど、彼の悲しみ、喜びは、個別的なものでなく、誰々とは特定できない。もっと普遍的で天国的で、次から次へと流れていき、留まることがない。
 シューベルトは違う。悲しみや孤独は彼自身のものであり、地上的で切羽詰まった切実なものだ。彼に寄り添い彼の独白を聴いていると、その心情が聴き手の心の中にも滓のように溜まっていく。恐ろしい音楽だと窺い知って、ようやく離れることができた。
 「21番 D.960」は、限りなく美しい、2楽章など美の極北だと思う。31歳で亡くなる2カ月前に書かれたシューベルトの遺作。前年に書き終えた「冬の旅」は死の直前まで手を入れていたという。悲しくも妖しいまでの音楽である。

 その「ピアノソナタ21番」を、協奏曲への編曲とはいえ久しぶりに聴く。 
 編曲した吉松さんは、田部さんの「ピアノソナタ21番」のCDを一聴して魅了され、自身の「プレイアデス舞曲集」を録音してもらい、「ピアノ協奏曲《メモ・フローラ》 Op.67」を書くことになった。その後「 シューベルトのピアノソナタ21番をピアノ協奏曲にしたらどうだろう」と不遜にも思いつき、これを田部さんへの誕生日プレゼントにしようとした。こんなことがプログラムノートに書かれており、藤岡さんとのプレトークでもその思い出話を披露していた。
 昔から名手の演奏家が作曲家を触発し、新たな作品を生み出すことは往々にしてあった。まさにその現場に立ち会ったわけだ。

 いや、なにはともあれ田部さんのピアノが素晴らしすぎる。田部さんのピアノは、低音の不気味なトリルから水滴が落ちるような高音まで、全域にわたり美しく鮮明、最初の一音で涙腺が崩壊してしまった。2楽章はずっと号泣、3楽章はオケを主導とした編曲だから立ち直り、4楽章は思いを断ち切ったような明るさが切ない。でも、ピアノを囲んでオケのメンバーが伴奏しているのを目にすると、シューベルトに「決して一人ではないんだよ」と話しかけているようにも思え、また落涙。
 オーケストレーションは、ソロを邪魔しないよう注意深く書かれている。難点をあげれば、この曲に華やかな音色のグロッケンシュピールはないだろうと思ったが、控え目な使用だし、誕生日プレゼントだし、不遜な試みであったのだから許すべきか。
 使用したピアノは、ベーゼンドルファー・ジャパンより提供を受けたModel 280VC、田部さんの暖かく柔らかい音を支えていた。

 以下は、演奏会後の吉松さんのブログ。

 http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2022/01/post-2c5b0c.html


 後半は、シベリウスの「交響曲第1番」。 
 「交響曲第1番」は、「フィンランディア」「4つの伝説曲」など幾つもの交響詩や「クレルヴォ」(合唱付き管弦楽曲)を作曲したあとに手がけた作品。音楽的な完成度は高く、美しいメロディが満ち劇的。しかし、思索的な後期の作品群に比べると曲の深みはもうひとつで、演奏機会も少ないのだろう。シティフィルは、藤岡さんの棒の下、いつもの熱演だった。
 もっとも、前半の田部さんのピアノで完全に魂を抜かれ、ほとんど上の空で聴いていたけど。

 会場のティアラこうとうは、形状がシューボックス型というが、正方形に近いせいもあるのか、低音がちょっとブーミー気味になる。分解能力にも少し難がある。ピアノの音は良く聴こえるし、舞台が近く感じるから、大規模なオケよりは比較的小編成の室内楽などのほうが合うのかも知れない。

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