2021/3/26 高関健×シティフィル ショスタコーヴィチ「交響曲第8番」2021年03月28日 09:59



東京シティ・フィル 第341回定期演奏会

日時:2021年3月26日(金) 19:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:高関 健
演目:モーツァルト:交響曲第31番 ニ長調 K.297「パリ」
   ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ハ短調 op.65

東京交響楽団 第688回 定期演奏会

日時:2021年3月27日(土) 18:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:井上道義
共演:ピアノ:北村 朋幹
演目:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 op.58
   ショスタコーヴィチ:交響曲 第6番 ロ短調 op.54

 サントリーホールにて連日のショスタコーヴィチ。それも比較的演奏機会の少ない「交響曲8番」と「交響曲6番」を続けて聴いた。

 「8番」は「7番」からはじまる3曲の戦争交響曲の真ん中、深刻で暗い。「7番」は巨大で組曲的な作りであって、くだんのチチンプイプイを含め、どうにも捉えどころがない。「9番」は諧謔に満ちた破茶滅茶調で、“交響曲における9番”を揶揄しているようにも思える。戦勝を祝した記念にしてこの硬骨漢ぶりは、後のジダーノフ批判にもつながって行く。
 「交響曲8番」は、標題のない純音楽でありながら、戦争の悲惨さを極限まで伝える、狂気が立ち現れる。5楽章だが3楽章から5楽章までは続けて演奏され、ほとんど3楽章構成といってもよい。第1楽章はアダージョ、悲劇と凶暴とが綯交ぜになった長大な楽章。演奏時間は全曲の半分を占める。第2楽章はスケルツォ的な皮肉な楽章で、この曲の屈折点。第3楽章は怒涛の大行進、ティンパニ、スネアドラム、トランペットが大騒ぎ、激戦の描写のようでもあるが何故か虚しい。4楽章は戦場の鎮魂歌、5楽章は祝祭的な雰囲気や希望が垣間見えるものの、恐怖の第1楽章が再現されてからは、味方は敵かも知れないと疑心暗鬼が湧き上がってくる。最後は形だけの平和が訪れ、消え去るように終わるが、癒しからほど遠く、虚しさだけが残像のように残る。

 「6番」は、ラルゴ、アレグロ、プレストという3楽章形式、やはり第1楽章の緩徐楽章から始まり、この楽章が全体の半分を占めるなど「8番」と似ている。ただ「8番」のように陰々滅々の大曲といった風ではなく、ショスタコーヴィチにしては穏当なこじんまりとした曲である。「6番」は「5番」「7番」という大向こうを唸らせるような、大衆迎合を装った作品に比べると地味で取っ付きにくい。ラルゴから徐々にテンポをあげて最後にプレストで締めるという変わった構成で、普通の交響曲でいう第1楽章を欠いている。
 オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が共産党から批判されたあと、ショスタコーヴィチは、自ら「交響曲4番」の危険性を察知し、「4番」を封印した。そして、「5番」で汚名を挽回した。もちろん、ただ単に当局に阿ったわけではないが、「5番」が熱狂的な支持を得たことは事実だろう。しかし、本人は“これだけが交響曲ではない”と言いたかったに違いない。むろん闇に葬った「4番」のように先鋭的ではないが、「5番」に対する反動というか、交響曲の可能性を拡張したいという本能が、極めて実験的な「交響曲6番」を書かせたような気がする。そういえば、「4番」も3楽章構成だった。

 両日のプログラムとも、ショスタコーヴィチに組み合わせた曲がまた何ともいえず素敵だ。「8番」にはモーツァルトの「パリシンフォニー」、「6番」にはベートーヴェンのピアノ協奏曲の「4番」である。

 26日のシティフィルは、当初ヴェルディの「レクイエム」の予定であったが、感染予防対策のため変更。変更後のプログラムがショスタコの「8番」というのも驚き。それに加えてのモーツァルト「パリシンフォニー」である。
 モーツァルト22歳、母を失い失敗に終わったパリでの就職活動。この地での作品は、悲哀に満ちたイ短調の「ピアノソナタ8番 K.310」やホ短調の「ヴァイオリンソナタ28番 K.304」などとともに、ギャラントなこの「交響曲31番 K.297」や「フルートとハープのための協奏曲 K.299」などが創り出されている。天才のパリ時代、これら作品たちの振幅の大きさに暫し愕然とする。

 27日の東響は、恋するベートーヴェンのピアノコンチェルトである。ソリストはネルソン・ゲルナーの予定が北村 朋幹に代わった。北村 朋幹のピアノは、先々月同じベートーヴェンの「ピアノ協奏曲6番」(ヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲したもの)を聴いている。
 ベートーヴェンは克己というかヒロイックなところが好かれるようだけど、穏やかで幸せに満ちた作品もたくさんある、この「ピアノ協奏曲4番」や、「交響曲4番」、「ヴァイオリン協奏曲」、3曲の「ラズモフスキー四重奏曲」などである。激情よりは優しさや暖かさに満ちたこれらの作品群は、ダイム伯爵夫人ヨゼフィーネとの恋愛中に書かれたといわれる。
 ダイム伯爵は蝋人形館の経営者、蝋人形館には時計仕掛けの自動オルガンがあり、この自動オルガンのための曲をモーツァルトに依頼している。ただ、ヨゼフィーネにとっては不幸な結婚だった。1805年ころには未亡人となっていて、ベートーヴェンと親密に交際していたという。もっともヨゼフィーネは、1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚、これも幸せだったとはいえず、最期は精神を病んで亡くなった。ベートーヴェンとの間に隠し子がいたという説もある。

 さて、26日、シティフィルのモーツァルト「交響曲31番」。
 軽快で華やかなシンフォニーというよりは、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、といった風。今の世の趨勢に逆行するような、SP音盤から聴こえてきそうな感じで、やけに時代がかっている。
 譜読みの鬼、高関さんは、プレトークで、“モーツァルトがパリの聴衆にウケようと頑張り過ぎて滑ったオーケストレーション”といった趣旨の話をした。なるほどギクシャクしてぎこちない。こういった解釈もありうるわけだ。ちょっと面食らったけど、すごく面白く聴かせてもらった。

 ショスタコの「交響曲8番」、これはもう実演でしか味わえない凄演。「8番」は過去にヘンヒェン×読響、ラザレフ×日フィルで聴いているが、こういった演奏に出会うと、ショスタコの最高傑作という声に頷きたくなる。
 高関さんは、はったりとか外連味とかで音楽を誤魔化す人でない。コツコツと設計図=楽譜と格闘しながら、煉瓦を積み上げるようにして曲を構築していく。それが時として音楽の面白さを削ぐことがあるけど、ショスタコのような多重構造の、言ってみれば何重にも入れ子になった音楽を解きほぐすには、こういった緻密な手法が強味となる。
 シティフィルの音色はざらっとした木綿のような肌ざわり。弦も管も火のでるような熱演。悲惨極まる戦場、抑圧された日常、平和さえ皮肉な目でしか眺めることができない国家の様態を、実に見事に描き出した。
 最終楽章、コーダの手前でチェロのソロがある。あろうことかその直前でトップの弦が切れた。次席と楽器を交換して事なきを得たが、瞬間音楽が止まる。その事故そのものが、大詰め、偽りの平和の入口のように思えて、戦慄の深みがさらに増したことを告白しておこう。
 会場は千鳥格子配置で40%程度の入りであったが、高関×シティの熱狂的ファンもいたであろう。高関さんの一般参賀となった。

 翌27日、ベートーヴェンのピアノコンチェルト、北村朋幹&井上×東響。
 最初、聴きなれない装飾音風に和音を分解しながら入ってきたのでちょっと吃驚したが、北村さんの音は軽すぎず重すぎず、ベートーヴェンの愛の歌「4番」にぴったり。ゆったりめのテンポを自在に動かす。1楽章の素晴らしいカデンツァも自分で創ったものらしい。
 井上×東響の管弦楽は、8-6-4-4-2の編成とは思えないほどの音圧で、濃厚にサポートする。井上さんはスコアを置いていたものの、ほぼ暗譜。大袈裟な身振りに騙されてはいけない、各パートへしっかりと的確に表情をつけていく。何度でも繰り返し言いたくなるが、東響の音は弦も管も美しい。特に木管は世界水準だろう。ここ数年は低弦の厚みが加わり、奥行きが一層深くなってきている。もともと「4番」はいつ聴いても泣ける曲だが、今回は不覚にも号泣した。
 演奏終了後、もちろんブラボーは禁止されているけど、おぉ~、というどよめきが波紋のように拡がり、拍手とともに歓声に近い空気感が会場に満ち溢れた。名演だった。

 井上さんのライフワークであるショスタコーヴィチ。
 「6番」の生は、はじめてかも知れない。音盤で聴くと演奏時間は30分程度だし、ショスタコにしては控えめな小曲と思っていたが、舞台に14型のオーケストラが展開し、井上流の指揮を目の当たりにすると、いやこれは大曲です。
 分厚い葬送曲風の第1楽章からして「8番」の緩徐楽章を予告する。第2楽章の弾けぶり、第3楽章のロッシーニをパロったどんちゃん騒ぎ。でも、これは交響曲なのか、一体何のための音楽か、聴衆を愚弄し嘲笑うために創ったものなのか。ともあれ、熱量がたっぷり籠った轟演で、音の洪水に翻弄された。
 聴衆の興奮も半端ではなく、やはり、井上さんの一般参賀、コンマスのニキティンを伴って。

 2日間にわたったショスタコーヴィチ体験。どうしたって裏読みをし、いろいろ解釈をしたくなるが、無駄なような気もする。どうせ正解など分かりはしない。彼自身、作曲にあたって明確な意図があったにせよ、彼が生きた世界では正直に表現すること自体が生死に関わった。音楽という抽象的な作り物のなかに韜晦し、様々なメッセージも組み込んだことは確かだろう。しかし、それは永遠の謎のまま残っていく。
 われわれは、それぞれ時代で、その音楽、音響を浴びて、そのあと残る錯綜、矛盾に立ち竦み、狂気、悲惨、哄笑の諸々を見据えて、それぞれのメッセージを紡ぎだせばよい。
 2日間、ウーハンコロナのさなかで、久しぶりにシティフィルと東響から14型オーケストラのショスタコ音楽という贅沢な伝言をもらった。ショスタコーヴィチの住んだ世界に比べれば、この日本、何ほどのことがあろう。決してああいった世界を招いてはならぬ。

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