2021/7/21 飯守泰次郎×読響 モーツァルトとブルックナー2021年07月22日 10:48



読売日本交響楽団 第610回 定期演奏会

日時:2021年7月21日(水)19:00
場所:サントリーホール
指揮:飯守 泰次郎
演目:モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調
      「ハフナー」K.385
   ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調
      「ロマンティック」(ノヴァーク版第2稿)

 先月に引き続いて飯守翁のブルックナー。前回は東響との「7番」、今回は読響との「4番」で、コルネリウス・マイスターの代役として。プログラムも変更になり、「モーツァルトとブルックナー」となった。

 まずは、飯守のモーツァルト。協奏曲は何度か聴いたことがあるけど、交響曲は記憶にない。初めてかも。
 せせこましいところがなく悠然と歩む。構えの大きな音楽。でも古色蒼然といった巨匠スタイルとは違う。もちろん古楽器風であるはずはないが、そんなにヴィブラートはかけてなかった。重心は低いものの威圧的ではなく、むしろ伸びやかで幸福なモーツァルトだった。

 飯守のブルックナーはもう圧倒的、それ以外の言葉は不要。
 やはり読響はブルックナーオケだ。都響がマーラーを、日フィルがシベリウスを得意としているように、ブルックナーを得意としている。オケのメンバーが様変わりしても、オケに与ってきた歴代の監督、演奏歴の影響は厳然としてあるような気がする。技量云々ではなく音の響がそれぞれの作曲家に対応できてしまう、ということだろう。今回の読響も瑕瑾はいろいろあったとしても、ブルックナーとしての音の重量、厚み、奥行きはとてつもないものだった。
 飯守のブルックナーは、基本不動で押し通すけど、指揮者の思いと棒との間にはそのときどきで微妙なズレが生じる。オケはそれをコンマスを筆頭に音化するわけだが、実際に出てくる音には、指揮者のプレゼンスとオケの歴史が緊張感を伴って表れてくる。80歳を越えた飯守は、このとき20歳も30歳も若返ったように見えた。
 コンマスは日下さん。日下さんは翌日の室内合奏演奏会のリーダーとなっていて、2日連続はないと思っていたから幸運。ヴィオラには鈴木、柳瀬の両ソロ・ヴィオラが座って、2楽章など最高の表現となった。
 この先、飯守のブルックナーを何度聴くことができるだろう。ますます貴重になってきた。

 何十年も昔のこと、『モーツァルトとブルックナー』という本があった。既にその版元は潰れてしまったので、もうこの本を入手するのは難しい。
 著者は宇野功芳という。一応音楽評論家である。“一応”とつけたのは、本人は合唱指揮者が本職だと言っていたから、音楽評論は余技と考えていたのだろう。たしかに彼の批評は独断と偏見に満ち、断定的で主観的で、好悪や良し悪しを遠慮なく書き殴り、とても公平を旨とし客観を装うべき評論家とは言えないようなところがあった。
 評論家というよりは一人のファンとして演奏家を応援していたようにも思える。ところがその大言壮語、クセの強さが一方で歓迎され、評論家としても結構名を馳せていた。お父さんが漫談家の牧野周一というのも驚きで、生涯合唱指揮を続けつつ、後年には管弦楽も振って独自の活動をした。ユニークな人だった。
 その著『モーツァルトとブルックナー』は、彼が最も好きだという2人の作曲家の作品と演奏家についてまとめたもの。このなかで、とりわけブルックナー指揮者を論じた部分の毀誉褒貶が極端で、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、マタチッチ、朝比奈を絶賛し、フルトヴェングラー、クレンペラーなどを批判していた。マタチッチと朝比奈は、同時代人として実演に接することが出来たから、当時のマタチッチ詣でや朝比奈詣なる現象の幾ばくかは、この本の影響があったのかも知れない。

 それから幾星霜、現在では多くの指揮者が当たり前のようにブルックナーを振り、印象深い演奏を残してくれている。聴き手のブルックナー演奏に対する許容範囲も随分広くなった。しかし、宇野功芳がいう「実にブルックナーの本質は、<透明な響きにかくされた寂寥>であり、<内省>であり、<祈り>であり、<きびしくも孤高な魂>であり、<宗教的な至福の境地>であり、これ以外のものではありえない」という言葉を持ち出せば、今それを一番感じさせてくれるのは飯守翁であると、改めて確認した演奏会だった。

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