2021/7/3 井上道義×新日フィル ショスタコーヴィチ「交響曲8番」2021年07月03日 19:16



新日本フィルハーモニー交響楽団 第635回 定期演奏会 ジェイド

日時:2021年7月3日(土)14:00
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義
演目:ショスタコーヴィチ/ジャズ組曲第2番より抜粋
   ショスタコーヴィチ/交響曲第8番 ハ短調 op.65

 3月、2夜にわたってショスタコーヴィチの交響曲を聴いた。ひとつは高関×シティフィルの「8番」、もうひとつは井上×東響の「6番」であった。
 今度は井上が新日フィルを振って「8番」を披露してくれるという。もともとはヴァレリー・ポリャンスキーが指揮する予定だった。やはり来日不能で、井上に交代した。
 井上はショスタコーヴィチをライフワークとしている。伝説の日比谷公会堂での全曲演奏会には行けなかったが、日比谷公会堂改修前の記念コンサートにおける新日フィルとの「9番」「15番」は聴いている。あと、先日の東響との「6番」、N響との「11番」、神奈川フィルとの「14番」を聴いた。

 今日の演奏会、最初は「ジャズ組曲第2番」。
 正確には旧「ジャズ組曲第2番」。現在では「ステージ・オーケストラのための組曲」と呼ぶのが正しい。昔、誤って「ジャズ組曲第2番」とされていたもの。本来の「ジャズ組曲第2番」は、20世紀の終わりに発見されるまで謎につつまれていたから、未だにこの「ステージ・オーケストラのための組曲」が、そのまま「ジャズ組曲第2番」と呼ばれて演奏されることもある。
 今日は全8曲のうち5曲が選ばれた。映画音楽やダンス音楽からの流用もあり、運動会かサーカス小屋で流れていてもおかしくない曲ばかり。ジンタ調であったり、歌謡風であったり、軽快でありながら、ほろりとくる。そういえばショスタコはサーカス・ポルカも作曲している。ショスタコの別の一面を知るには格好の曲だろう。
 井上は指揮台を使わず、まさに平場で踊りまくる。オケの中にまで入って振る。音楽はもちろん指揮ぶりもメチャクチャ楽しい。
 
 休憩を挟んで「交響曲8番」。今日のプログラムは、前半と後半で明暗の対比。
 ここでも井上は指揮台を使わず、オケと同じ地平に立って指揮をした。派手な指揮ぶりは変わらないが、解釈は奇を衒うことなく極めてオーソドックス。とりわけアタッカで演奏される3楽章以降の物語性が存分に伝わってきた。3楽章はまさに突撃の阿鼻叫喚、4楽章の不気味な鎮魂歌、5楽章の消えない恐怖と偽りの平安。それぞれ見事な描きわけ。
 オケもよく鳴った。午後から雨はあがったが、こんなに湿気が多いにもかかわらず、不順な天候を吹き飛ばす勢い。反応、集中力も半端ない。難曲をほとんど破綻なくまとめあげたことにも驚嘆した。
 演奏するほうはもちろん大変だが、聴いているほうだって一瞬たりとも気を緩めることはできない、緊張感が持続する。曲が終わるとともに疲れがドット押し寄せて来た。

 ところで、ショスタコ自身はこの「8番」についてこんなことを言っている。
 「交響曲第8番は、悲劇的であり、なおかつ劇的な多くの内面的対立を秘めています。しかし、全体的にみれば、楽観的であり人生肯定的作品です。……最後の第5楽章は、様々なダンスの要素と民謡を取り入れた、牧歌風で、明るく陽気な音楽です。……これを私の過去の作品と比較すると、雰囲気としては、交響曲第5番や五重奏曲に最も近いのです。……この新作の哲学的概念を要約すると<人生は美し>となります。暗く憂鬱なものはすべて朽ち果て、消滅し、美が凱歌を奏でるでしょう」(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』)。

 ホントかいな?
 全体的にみれば、楽観的であり人生肯定的作品?
 牧歌風で、明るく陽気な音楽?
 雰囲気としては、交響曲第5番や五重奏曲に最も近い?
 暗く憂鬱なものはすべて朽ち果て、消滅し、美が凱歌を奏でる?

 作曲家本人の言葉だからといって、そのまま受け取っていいのか、そもそも額面通りの言葉と信じていいのか。
 音楽は概念を具体的に表現しなくても、直接情感を揺り動かす。惹起された情動はその言葉に疑問符をつきつける。

 井上道義オフィシャルサイトに今回の演奏に関するメッセージが掲載されていた。
 https://www.michiyoshi-inoue.com/2021/07/_635.html
 とても面白い。井上は、この「8番」を評して、
 「5番のように万人向きのわかり易いモノを書いた自分を皮肉っぽく笑い、生き残っている自分の運命へのレクイエムと、人びとの止むことない勝利への渇望を距離を持って鳥の目で望むような音楽。……逃れることが不可能な時代の運命の下に生きなければならない人そのものへの悲歌か牧歌か賛歌か」と書いている。

 作曲家より、むしろ指揮者の、この言い分のほうがピッタリくる。
 もっとも、一方的に深刻で悲劇的な作品とばかり捉える必要はない。悲惨な体制のなかでジャズ組曲を書いたショスタコーヴィチにしても、病から生還した井上道義にせよ、生きている限り、死なない限り、<人生は美し>いと、どこかで言いたい、のかもしれない。
 まぁ、いずれにせよショスタコーヴィチの音楽は多義性のかたまり。

 それにしても、あのスターリンがいなかったら、ソビエト連邦という共産主義と遭遇しなかったら、ショスタコーヴィチはどんな作曲家になっていたのだろう
 最悪の政治体制がこういう芸術家を産み出すアイロニー。一方、恵まれた社会が最良の芸術家を生むだすわけではない。
 これはなかなか難しい問いのような気がする。

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